深海生物図鑑

ダイオウイカはどこまで分かっているか

海の底に、十数メートルにもなる巨大なイカが潜んでいる――。そう聞けば、怪物伝説のように思えるかもしれない。

しかしダイオウイカは、もちろん実在する。

不思議なのは、これほど大きな動物でありながら、その暮らしぶりを人間がほとんど見てこなかったことだ。標本は世界各地で見つかり、マッコウクジラが食べた痕跡も知られている。それでも、健康な個体が深海で何をしているのかを直接観察できた例は非常に限られている。

ダイオウイカは「存在は昔から知られていたのに、生きている姿は長く見えなかった」という、深海という環境そのものの難しさを象徴する生物なのである。

巨大であることは確かだが、「最大何メートル」かは単純ではない

ダイオウイカはツツイカ類の一種で、現在は一般に *Architeuthis dux* と呼ばれる。細長い胴体に8本の腕、さらに獲物を捕らえるための非常に長い2本の触腕をもつ。

ここで注意したいのが「全長」だ。

イカの長さには、胴体にあたる外套膜の長さ、腕までを含めた長さ、さらに長い触腕の先端まで含めた全長など、複数の測り方がある。しかも触腕は伸縮し、死後に引き伸ばされることもある。そのため、「ダイオウイカは最大○メートル」とひとつの数字だけで語ると実態を誤解しやすい。

過去には20メートル級とされる報告もあったが、古い記録には測定方法の不確かなものが含まれる。一方、研究者が蓄積された標本や身体各部の比率を検討した研究でも、ダイオウイカが極めて大型になること自体は否定されていない。最大サイズについては、確実な実測値と推定値、古い目撃記録を分けて考える必要がある。

つまり、「巨大イカは本当にいる」は事実だが、「史上最大個体は正確に何メートルだったか」は意外なほど難しい問題なのである。

長いあいだ、研究材料は「死んだ個体」だった

ダイオウイカ研究の最大の問題は、単に深い場所にいることだけではない。

海岸への漂着、漁網への偶発的な混獲、捕食者の胃内容物などから標本を得ることはできる。しかし、それらから分かるのは主として体の構造や食べたもの、遺伝情報などである。

泳ぐ速度はどの程度なのか。獲物をどのように探すのか。普段は単独でいるのか。昼と夜で深度を変えるのか。繁殖時にはどのように相手を見つけるのか。

死んだ個体をいくら詳しく調べても、それだけでは答えにくい。

このためダイオウイカには、身体についてはかなり分かっているのに、行動については大きな空白が残るという特徴がある。

2004年、深海で生きた姿が撮影された

大きな転機となったのが、日本の研究チームによる小笠原諸島沖での調査だった。

2004年、深度約900メートルに設置されたカメラが、自然環境にいる生きたダイオウイカを撮影した。成果は翌2005年に報告されている。撮影された個体は餌に接近し、長い触腕を使って捕らえようとした。これは、野生状態のダイオウイカの行動を直接示した最初期の重要な記録である。

特に興味深いのは、その行動が「巨大な体で深海をただ漂い、近くに来たものを食べる」という単純なイメージとは異なっていたことだ。

少なくともこの観察では、ダイオウイカは自ら餌へ接近している。

ただし、一度の観察から「ダイオウイカは常にこう狩る」と一般化することはできない。餌や装置そのものが行動に影響した可能性もある。

ここに深海生物観察の難しさがある。

映像は非常に強い証拠だが、カメラを持ち込んだ瞬間、そこは完全な意味での「誰にも邪魔されていない深海」ではなくなる。

何を食べるのかは、比較的分かっている

ダイオウイカは捕食者である。

2本の長い触腕の先端には獲物をつかむための吸盤が並び、捕らえた獲物を腕の間へ引き寄せ、中央にある硬いくちばしで処理する。胃内容物の調査からは魚類やイカ類を食べることが知られている。

したがって、「巨大だから何でも襲う怪物」というより、深海・外洋の食物網を構成する大型捕食者として考えた方が実態に近い。

そしてダイオウイカ自身も、食物網の頂点にいるわけではない。

重要な捕食者として知られるのがマッコウクジラである。マッコウクジラなどの胃から頭足類のくちばしが大量に見つかることは、深海性イカを食べている有力な証拠となる。頭足類のくちばしは消化されにくいため、直接観察の難しい深海の捕食関係を調べる重要な手掛かりにもなっている。

深海では、人間が狩りの現場を見ていなくても、「誰が誰を食べたか」の痕跡から生態系を逆算できるのである。

巨大な眼は何を見るためのものなのか

ダイオウイカを正面から見たとき、体の大きさとともに目を引くのが巨大な眼だ。

深海では太陽光がほとんど、あるいはまったく届かない。それでも完全な無光の世界とは限らない。多くの深海生物が生物発光を行うからだ。

巨大な眼については、遠くにある弱い光や、大型動物の移動によって生じる発光生物の反応を捉えるのに役立つ可能性が研究されてきた。特に、接近するマッコウクジラを早く発見するうえで有利なのではないか、という仮説が提案されている。

ただし、ここにも議論がある。

ダイオウイカの眼が「体の大きさから考えて異常なほど巨大なのか」を比較した研究では、大型のイカだから眼も大きくなったと説明できる可能性が指摘されている。つまり、「マッコウクジラを見るために巨大な眼へ進化した」と単純には断定できない。

確認されているのは巨大な眼そのもの。そこから先の「なぜそこまで大きくなったのか」は、複数の説明が検討されている段階である。

世界中のダイオウイカは同じ種類なのか

巨大なイカの標本は、北大西洋、北太平洋、南半球の海域など広い範囲から知られている。そのため過去には、地域によって複数の種が存在するのではないかとも考えられてきた。

ところが、各地の標本からミトコンドリアDNAを比較した研究では遺伝的多様性が非常に低く、世界のダイオウイカを一つの種 *Architeuthis dux* とみなす考えを支持する結果が得られている。

さらにゲノム解析も進み、ダイオウイカを分子レベルで研究するための基盤は以前より大きく整ってきた。

ただし、DNAを読めるようになったことと、生態が分かったことは別である。

世界の個体がどの程度移動するのか、海域ごとに繁殖集団が存在するのか、幼体がどこで成長するのかといった問題には、依然として不明な部分が多い。

繁殖は、今も大きな謎の一つ

ダイオウイカの体を調べれば、生殖器官や精包などの構造を見ることはできる。雌の体から精子を送り込んだ痕跡が確認されることもあり、繁殖方法を推定する材料になっている。

しかし、ダイオウイカ同士が深海で出会い、実際に交接する場面を人間が継続的に観察しているわけではない。

近年も生殖器官や精子移送の仕組みを調べる研究は続いており、解剖学的な理解は更新されている。

一方で、どこで産卵するのか、繁殖期がどう決まるのか、幼体がどのように成長して巨大な成体になるのかなど、生活史全体には大きな空白が残る。

寿命についても推定はあるが、年齢査定に使う構造の成長線がどの時間間隔で形成されるのかという問題があり、確実な寿命を決めるのは容易ではない。研究によって推定が大きく異なるため、「ダイオウイカは必ず○年生きる」と断定するのは適切ではない。

「見つかった」のに、まだほとんど見えていない

ダイオウイカについて分かっていることは、昔に比べれば驚くほど増えた。

巨大な体の構造が分かり、胃内容物から食性を調べられる。DNAから世界的な系統関係を探ることもできる。そしてついには、深海を泳ぎ、餌へ接近する生きた個体まで撮影された。

それでも、ダイオウイカの一生を追跡した人はいない。

どこで生まれ、どの深度を移動し、どれほどの範囲を泳ぎ、いつ繁殖し、何歳で死ぬのか。その全体像はまだ描けていない。

ダイオウイカの神秘は、「正体不明の怪物だから」残っているのではない。

実物もある。映像もある。遺伝子も読める。それなのに、生きている時間の大部分が人間の観察できない暗い海の中にある。

分かっている証拠を一つずつ積み上げても、その向こうにはまだ広大な空白が残る。その距離こそが、ダイオウイカという生物の本当の不思議さなのかもしれない。