暗い海底に、巨大なクジラの死骸が横たわっている。
深海では、海面近くでつくられた有機物の一部が「マリンスノー」と呼ばれる細かな粒子となって降り注ぎ、多くの生物の食物を支えている。しかし、そこへ突然、何トンもの肉や脂肪、骨をもつ大型動物の死骸が到着すれば、周囲の環境は一変する。
海底に沈んだクジラの死骸と、そこに形成される生物群集は「鯨骨生物群集」や英語の *whale fall* に由来する「ホエールフォール」と呼ばれる。クジラは死んだあとも、別の生命にとって巨大な資源となるのである。
しかも、その姿は時間とともに変わる。肉を食べる動物が集まり、骨の周囲に小動物が増え、やがて微生物の働きによって化学合成を基盤とする環境まで生まれる。研究では、この変化をいくつかの遷移段階として捉えている。ただし、それぞれの段階はきれいに切り替わるとは限らず、死骸の大きさ、水深、海流、酸素環境などによって大きく異なる。
クジラが海底に落ちると何が起こるのか
すべてのクジラの死体が深海底までそのまま沈むわけではない。海面を漂う間に分解されたり、海岸へ打ち上げられたりすることもある。
しかし大型の死骸が深海底へ到達すると、その場所には周囲とは桁違いに集中した有機物が持ち込まれる。
深海の多くの場所では、上層から届く食物は薄く広く分散している。クジラの死骸は、それとは正反対だ。一か所に巨大なエネルギー源が突然現れる。
その匂いや化学物質を感知した腐肉食者が集まってくる。
### 最初にやってくるのは大型の腐肉食者
新しい死骸では、ヌタウナギ類、サメ類、甲殻類など、動き回ることのできる腐肉食者が軟組織を食べることが確認されている。これは一般に「移動性腐肉食者段階」と呼ばれる。
大型動物に食べられるだけでなく、肉片や体液が周囲の海底へ広がるため、死骸の周辺そのものが栄養豊富になる。
肉の大部分が失われるまでの速さは一定ではない。死骸の大きさ、水温、水深、腐肉食者の種類や密度などによって違うため、「何か月で骨になる」と一律に決めることはできない。実際のホエールフォールでは、遷移の速さに大きな違いが観察されている。
肉がなくなっても、生態系は終わらない
肉がほとんど食べ尽くされると、巨大な食事会は終わったように見える。
ところが、ここからがホエールフォールの特徴である。
死骸の下や周囲の堆積物には、クジラ由来の有機物が染み込んでいる。そのため、多毛類や小型甲殻類など、有機物の多い環境を利用する動物が増える。
この時期は「富栄養機会種段階」などと呼ばれる。
さらに重要なのが骨だ。
クジラの骨は単なる硬いカルシウムの塊ではない。大型鯨類の骨には脂質などの有機物が残されており、それを利用できる生物にとって長期間の資源となり得る。
骨を食べる奇妙な生物、オセダックス
鯨骨生物群集を象徴する生物の一つが、環形動物の仲間であるオセダックス属(*Osedax*)である。
「骨を食べる虫」と呼ばれることもあるが、顎で骨をかじっているわけではない。
オセダックスには通常の意味での口や消化管がなく、根のような組織を骨の内部へ伸ばす。そこには共生細菌が存在し、骨に含まれるコラーゲンや脂質などの有機物を利用する仕組みに関与すると考えられている。オセダックスが骨を侵食することで骨内部の構造が変化し、ほかの生物が利用できる空間や資源にも影響するため、生態系を変化させる「生態系エンジニア」としての役割も研究されている。
つまり、クジラの骨は墓石のように残るだけではない。
それ自体が食物であり、住みかでもある。
骨の中から「化学合成の世界」が生まれる
ホエールフォールでもっとも興味深い変化の一つが、硫化水素などの還元的な化学物質が重要になる段階である。
骨や周囲の堆積物に残された大量の有機物を微生物が分解すると、酸素の乏しい場所では硫酸還元などの嫌気的な代謝が進み、硫化水素が生じる。
この硫化水素をエネルギー源として利用する化学合成微生物が増える。
太陽光を使う光合成ではなく、化学反応から得たエネルギーによって有機物をつくる世界だ。
こうした微生物そのものを食べる動物や、化学合成細菌と共生する動物が集まることによって、死んだクジラの周囲に独特の生態系が形成される。この段階は一般に「硫化物依存段階」などと呼ばれている。実際の鯨骨周辺では硫酸還元や硫化物生成が観測されており、ホエールフォールが化学合成生態系を支えることは研究によって確認されている。
ここでは、すでにクジラの姿はほとんど失われているかもしれない。
それでも、その体に蓄えられていた化学エネルギーは別の生命へ受け渡され続けている。
深海の物質循環にクジラが参加している
ホエールフォールは「死骸に生物が集まる」というだけの現象ではない。
海の表層でつくられた有機物が大型のクジラの体内に蓄積され、その一部が死後に深海底へ運ばれる。そこで腐肉食者、小型底生動物、微生物などによって分解され、炭素、窒素、硫黄などを含む物質が再び生態系の中を移動する。
つまりクジラは、生きている間だけでなく、死後にも海洋の物質循環へ関わる。
特に巨大な死骸は、通常なら広い範囲に少しずつ供給される有機物を一地点へ集中させる。その結果、周囲の海底とはまったく異なる生物密度や化学環境が一時的につくられる。
深海を均一な暗い平原だと考えると、ホエールフォールの意味を見失う。
実際の深海底には、沈んだ木材、大型動物の死骸、冷湧水、熱水噴出孔など、局所的にエネルギーが集中する場所が点在している。ホエールフォールも、そのような「深海の不均一さ」をつくる要素の一つなのである。
熱水噴出孔や冷湧水をつなぐ「飛び石」なのか
ホエールフォールでは、熱水噴出孔や冷湧水と同じように、硫化物などを利用する化学合成生物が見つかることがある。
この共通性から、研究者たちは一つの興味深い仮説を考えてきた。
海底に点在するホエールフォールが、化学合成環境に生息する生物の分散を助ける「飛び石」のような役割を果たしているのではないか、という仮説である。
たとえば、遠く離れた冷湧水から別の冷湧水へ直接移動することが難しい生物でも、その途中に利用可能なホエールフォールが存在すれば、分布を広げやすくなる可能性がある。
実際、ホエールフォールと熱水噴出孔、冷湧水の生物群には一定の共通性が確認されている。
ただし、「クジラの死骸が必ず中継地点になっている」と証明されたわけではない。
生物によって幼生の分散能力は異なり、海流や水深も影響する。ホエールフォールがどの程度、深海生物の進化や地理的分布を左右してきたのかは、現在も研究されている問題である。
一つの死骸から、生態系の時間変化が見える
ホエールフォール研究のおもしろさは、同じ場所で生態系が変わっていく過程を追えることにある。
最初は肉をめぐって大型の腐肉食者が集まる。
次に、周囲の有機物を利用する小型生物が増える。
骨にはオセダックスなどが入り込み、微生物による分解が進む。
そして硫化物がつくられるようになると、化学合成を利用する生物群集が成立する。
ただし、この順序は教科書の章のように明確に区切られるものではない。複数の段階が同時に存在することもあり、すべての死骸が同じ経過をたどるとは限らない。
近年の観察でも、ホエールフォールの群集構造は時間とともに変化する一方、その変化には死骸や場所ごとの違いが大きいことが示されている。
私たちは自然のホエールフォールをどれほど見つけているのか
ここには大きな観測上の問題もある。
深海底そのものが広大で、クジラの死骸はその中の小さな点にすぎない。海面で死んだクジラがどこへ沈んだのかを追跡することも容易ではない。
そのため、研究では偶然発見された自然の死骸だけでなく、クジラの遺骸を海底へ設置して時間変化を観察する実験も行われてきた。
つまり私たちが詳しく知っているホエールフォールは、存在するもののごく一部である可能性が高い。
海域や水深によって生物群集がどこまで違うのか。小型のクジラと大型のクジラでは生態系の持続期間がどう変わるのか。過去の捕鯨による大型鯨類の減少が深海底の生態系にどの程度影響したのか。
まだ答えの定まっていない問いは多い。
一頭のクジラの死が、海底の世界を変える
海面近くを泳いでいた巨大な動物が死に、何千メートルも下の暗い海底へ沈む。
そこで肉は魚や甲殻類に食べられ、細かな有機物は底生動物に利用され、骨の内部ではオセダックスや微生物が活動する。そして分解によって生じた化学物質をエネルギー源として、さらに別の生物群集が成立する。
そこにあるのは、単純な「死骸の処理」ではない。
一つの巨大な生命が蓄えていた物質とエネルギーが、多数の生物へ分配されながら深海の循環へ組み込まれていく過程である。
光の届かない海底で、クジラの死骸の周囲だけに生命が密集している光景は、どこか異世界のように見える。
しかし、その世界を動かしているのは神秘的な力ではない。
捕食、分解、共生、化学合成、物質循環という、生態系を形づくる基本的な仕組みである。
ホエールフォールは、深海が何も起こらない静かな世界ではなく、死と分解さえ新しい生態系の始まりになり得る、動的な世界であることを示している。