海の底には、「深海」という言葉だけでは足りないほど遠い世界がある。水深6000メートルを超える海溝の内部、超深海と呼ばれる領域だ。ヨミノアシロ(*Abyssobrotula galatheae*)は、そんな場所から採集された記録をもつアシロ科の魚である。JAMSTECの海洋生物情報データベースでも、アシロ目アシロ科ヨミノアシロ属の一種として登録されている。
とりわけ有名なのが、水深8370メートルという採集記録だ。ただし、この数字には重要な注意点がある。ヨミノアシロは「世界でもっとも深い場所に暮らす魚」と紹介されることが多いものの、本当に8370メートルの海底で捕獲されたのかについては、現在も慎重に扱う必要がある。
8000メートルを超える海から得られた魚
ヨミノアシロが新属新種として記載されたのは1977年である。原記載では、複数の深海調査で得られた11個体が調べられ、採集地点は世界のさまざまな海域に及んでいた。多くの個体は3000メートルを大きく超える海底付近から得られている。
その中で際立っていたのが、1970年にプエルトリコ海溝で行われた調査だった。記録された海底水深は8370メートル。標本の標準体長は140ミリメートルで、これがヨミノアシロを「最深の魚」として有名にした。
8000メートルの海では、水圧は海面とは比較にならないほど高い。太陽光はもちろん届かず、水温も低い。さらに、表層でつくられた有機物の多くは沈降途中で消費されるため、海底へ届く食物も限られる。そこに魚がいるという事実そのものが、脊椎動物が耐えられる環境の限界を考える重要な手掛かりになる。
しかし、「8370メートルに確実に生息していた」とまでは言えない。
「最深記録」には大きな注釈がつく
問題は、ヨミノアシロを採集した網にある。
原記載で扱われた標本はいずれも、目的の深さだけで開閉するタイプの採集装置で捕らえられたわけではなかった。網は海底へ降下するときや引き上げる途中にも開いている。そのため、8370メートルの海底で操業した網から魚が出てきたとしても、その個体が途中のもっと浅い水深で入った可能性を完全には排除できない。原記載の研究者自身も、正確な垂直分布を決定できないことを明記している。
後の超深海魚研究でも、この8370メートル記録は「確認できない採集深度」として問題点が指摘されている。したがって、ヨミノアシロについては「8370メートルの海底で採集作業をした網から得られた記録をもつ」と表現するのが慎重である。
これは記録の価値を失わせる話ではない。ほかの標本の多くも非常に深い海底で操業した底引き網から得られており、消化管の内容物にも海底生活を示す証拠が残されている。少なくともヨミノアシロが深海底と強く結びついた魚であることには、複数の手掛かりがある。
小さな目と、柔らかな細長い体
ヨミノアシロは、巨大な深海魚ではない。体は細長く、尾へ向かって細くなり、皮膚はゆるく半透明で、下の筋肉が透けて黄色っぽく見えると記載されている。背びれと臀びれは長く続き、尾びれへつながる。胸びれも細長い。
とくに目立つ特徴が、非常に小さな眼である。原記載では眼の直径は標準体長の1%未満で、深く埋もれ、位置を確認することさえ難しいとされている。一方、頭部には感覚器につながる孔の系が比較的よく発達している。研究者は、小さく隠れた眼が実際にどの程度機能しているかについて疑問を示している。
ここから「眼を捨て、別の感覚だけで獲物を探している」と断定することはできない。頭部の感覚系が暗闇で重要になっている可能性は考えられるが、ヨミノアシロが生きた状態で周囲をどのように認識しているのかは、標本の形だけでは分からないからだ。
深海魚の姿は、ときに「異様な形」として紹介される。しかしヨミノアシロの小さな眼や細長い体も、まずは数百万気圧というような誇張ではなく、実際の深海環境の中で成立してきた生物の形態として見る必要がある。その形の一つひとつが何のためにあるのかについては、観察された事実と機能についての推定を分けて考えることが重要になる。
海底の小動物を食べている証拠
ヨミノアシロの生活を知るうえで、もっとも直接的な証拠の一つが消化管の中身である。
原記載では、複数の個体の腸から多毛類、等脚類、端脚類などの底生無脊椎動物が確認された。とくに等脚類の仲間は複数の個体から見つかっている。研究者は、これらの内容物から、ほとんどの標本が海底で餌をとっていた可能性が高いと判断した。
興味深いのは、胃や食道に入っていたものをそのまま食性の証拠にはしなかった点である。底引き網の中では、魚とほかの生物が一緒になり、引き上げられる途中で偶然飲み込む可能性がある。そのため研究では、そうした混入の影響を受けにくい腸内の内容物を重視している。
つまり、ヨミノアシロが海底近くで小型の底生動物を利用していることには標本から得られた根拠がある。一方で、待ち伏せするのか、底泥を探りながら移動するのか、どの程度頻繁に食べるのかといった行動までは分かっていない。
卵を産むことは分かる。それでも繁殖は謎だらけ
解剖された雌の卵巣からは、多数の小さな卵が確認されている。原記載ではヨミノアシロは卵生の魚として扱われており、調べられた複数の雌から発達段階の異なる卵が見つかった。
しかし、どこで産卵するのかは分かっていない。卵が海底にとどまるのか、水中へ放出されるのか、仔魚が成魚と同じ深度で暮らすのかも確定していない。
これは超深海魚を研究する難しさそのものでもある。標本からは体の構造や胃腸の内容物を詳しく調べられるが、「その魚が生きている間に何をしていたか」という情報の多くは失われる。産卵、成長、移動、繁殖相手との遭遇といった生活史を理解するには、生息環境での継続的な観察が必要になる。
どうやって巨大な水圧に耐えているのか
深海魚を語るとき、「高い水圧に耐えられる特別な体」という説明がよく使われる。しかし、ヨミノアシロについては、どの分子や生理機構が8370メートル級の圧力への耐性を生み出しているのかを直接証明したデータは限られている。
魚類全般では、深く生息する種ほどTMAO(トリメチルアミンオキシド)という物質の体内濃度が高くなる傾向が知られている。TMAOは高圧下でタンパク質の構造を安定させる働きがあると考えられ、その濃度と浸透圧の関係から、硬骨魚が生活できる深度にはおよそ8000メートル前後で生理的な制約が生じるという仮説も提案されている。
ヨミノアシロの有名な8370メートル記録が興味深いのは、まさにこの「魚類の深度限界」に近いからである。
ただし、魚類一般について成立する仮説を、そのままヨミノアシロの適応機構として扱うことはできない。ヨミノアシロ自身の体内でどのような圧力対策が行われているのかを知るには、新鮮な標本を用いた生化学的研究などが必要になる。
分かっているのは、生活の輪郭だけ
ヨミノアシロについて確実に言えることは、意外なほど限られている。
非常に深い海から標本が得られていること。小さな眼と細長い体をもち、海底性の小動物を食べていた証拠があること。卵をつくる雌が確認されていること。そして、少なくとも多くの個体が深海底付近で生活していたと考えられること。これらは標本から読み取ることができる。
その一方で、泳ぐ速さ、獲物の探し方、寿命、成長速度、産卵場所、仔魚の暮らし、個体数、季節的な移動、そして超高圧に耐える具体的な生理機構など、生活の中心部分には大きな空白が残っている。
「世界最深の魚」という一つの記録だけを見ると、ヨミノアシロはすでによく知られた深海魚のように思える。しかし実際には、その記録自体にも測定上の不確かさがあり、生きている姿について分からないことの方がはるかに多い。
海溝の底から引き上げられた十数センチほどの魚。その小さな標本から私たちが知ることができたのは、超深海で続いている生活のほんの断片にすぎない。ヨミノアシロの神秘は、「深い場所にいる」という数字だけではなく、その先に広がるほとんど観察されていない日常にある。