深海生物図鑑

コウモリダコの膜はどんな暮らしに役立つのか

八本の腕をつなぐ「マント」

コウモリダコを正面から見ると、八本の腕のあいだに大きな膜が張られている。腕を広げた姿は傘にもマントにも見え、この膜こそがコウモリダコの外見を強く印象づける部分である。

膜は単なる飾りではない。八本の腕を互いにつなぎ、腕の内側には吸盤と、細い指のような突起である「触毛(cirri)」が並ぶ。腕を閉じれば膜も折りたたまれ、広げれば一枚の大きな面になる。つまりコウモリダコは、一本一本の腕だけでなく、「腕と膜を合わせた構造」そのものを使える体を持っている。

では、この膜は深海で何のために存在しているのだろうか。

現在までの観察から特にはっきりしているのは、防御行動との関係である。一方で、膜のすべての機能が実験的に確かめられているわけではない。摂食や省エネルギーとの関係には、観察から推定できる部分と、まだ分かっていない部分が残っている。

危険が迫ると、膜を裏返す

コウモリダコの膜がもっとも劇的に使われるのは、外敵に脅かされたときだ。

深海で観察されたコウモリダコは、刺激を受けると腕を反り返らせ、膜を頭部や胴体の外側へかぶせるような姿勢をとることがある。普段は内側にあった膜が外を向き、腕の内側に並ぶ触毛も目立つ状態になる。この行動は英語圏では「pineapple posture」などと呼ばれてきた。MBARIも、コウモリダコが危険時に膜でつながった腕を裏返すようにして外見を変える行動を紹介している。

見た目だけなら、突然トゲのある巨大な口を開いたようにも見える。しかし、触毛は硬い棘のような武器ではない。したがって「膜を裏返して敵を刺す」と考えるのは適切ではない。

観察事実として言えるのは、膜と腕を反転させることで、コウモリダコの輪郭と見え方が大きく変わるということだ。それによって捕食者を戸惑わせたり、頭部や胴体など重要な部分を覆ったりする効果があると考えられている。どの効果がどれほど重要なのかを野生の捕食場面で数量的に確かめることは難しく、ここには推定が含まれる。

つまり、あの奇妙な「マント」は深海の怪物らしく見せるためにあるのではない。捕食される側の動物が生き残るためにつくり上げてきた、防御装置の一部なのである。

墨を吐かないコウモリダコの防御

多くのイカやタコは、捕食者に追われると墨を使う。しかしコウモリダコには、典型的な墨袋がない。

その代わり、コウモリダコは複数の防御手段を持つ。腕の先端には発光器官があり、強い刺激を受けた場合には発光物質を含む粘液を放出することも知られている。膜を反転させる行動も、そうした一連の防御の一つと考えられる。

興味深いのは、コウモリダコの暮らす環境である。コウモリダコは中深層、とくに酸素の少ない「酸素極小層」でしばしば見られる。こうした場所では、大量の酸素を使って長時間高速で泳ぎ続けることは不利になりやすい。コウモリダコ自身も非常に低い代謝に適応した頭足類として知られている。

ここから、「膜によって姿を変える防御は、高速逃走に頼らず危険をしのぐ方法として有利なのではないか」と考えることはできる。ただし、これは膜の進化理由を直接証明した実験結果ではない。

膜の反転、発光、短い逃避行動などを組み合わせることで、できるだけ長距離を全力で泳がずに済む――そんな生活戦略の一部である可能性は高いが、膜だけを取り出してエネルギー節約効果を測ったわけではない。この区別は重要である。

膜は「獲物を包む網」なのか

大きな膜を見ると、獲物を囲い込む網として使っているようにも想像できる。

しかし、現在知られているコウモリダコの食生活は、その印象とはかなり違う。

コウモリダコは、一般的なイカのように魚を高速で追い回して捕らえることを主な生活にはしていない。長く伸ばせる二本の細いフィラメントを漂わせ、沈んでくる有機物や小さな生物などを集める。いわゆる「マリンスノー」が重要な食物となることが、深海での映像観察、捕獲個体の調査、飼育実験などから明らかになっている。

食物がフィラメントに付着すると、それを腕の間へ引き込み、吸盤から出る粘液で粒子をまとめ、触毛を使って口へ送る。この独特な食べ方は、活発な獲物を追い続けるよりも少ないエネルギーで食物を得られる方法と考えられている。

ここで膜も腕全体の形を支える構造として関わっている可能性はある。しかし、「膜そのものがマリンスノーをすくう網である」と断定できる証拠は乏しい。

観察によって比較的よく分かっているのは、フィラメント、吸盤の分泌物、触毛が食物を集めて口へ運ぶ過程である。膜がその作業にどの程度積極的な役割を持つのかは、防御行動ほど明確ではない。

大きな膜があっても、泳ぎの主役とは限らない

膜が大きいなら、クラゲの傘のように水を押して泳ぐのではないか、と考えたくなる。

実際には、成長したコウモリダコの通常の移動では、胴体の左右にある一対の鰭が重要である。深海ではゆっくりと鰭を動かして移動する姿が観察されている。必要なときには噴射による移動もできるが、常に高速で泳ぎ回る動物ではない。

したがって、膜を「巨大な泳ぐ翼」とみなすのも単純すぎる。

もちろん、水中で大きな膜を開閉すれば抵抗や姿勢に影響するはずであり、流体力学的な効果がまったくないとは考えにくい。しかし、自然状態で膜がどの程度姿勢制御や減速に使われているのかについては、防御時の使い方ほど詳しく分かっていない。

深海生物の体では、目立つ構造に一つだけの役割があるとは限らない。膜もまた、防御、腕の配置、食物処理、姿勢など複数の機能に関わっている可能性がある。

深海で観察する難しさ

コウモリダコの膜について未解明な点が残る大きな理由は、そもそも野生の行動を見ることが難しいからだ。

深海では、人間が直接近づいて長時間観察することはできない。現在の重要な情報源の一つは、ROVと呼ばれる遠隔操作型の無人探査機で撮影された映像である。こうした観察によって、コウモリダコがどの深さでどのように泳ぎ、何を食べ、刺激に対してどう反応するかが少しずつ分かってきた。2012年の摂食研究でも、多数の深海映像に加えて飼育実験や形態観察が組み合わされた。

それでも、「カメラの前で起きた行動」が日常的にどれくらいの頻度で起きているのかは別問題である。

膜を反転させる姿勢も、探査機や採集装置による刺激を受けたときに観察される場合がある。自然界で実際にどの捕食者に対して使うのか、攻撃のどの段階で使うのか、成功率がどの程度なのかを直接確かめるのは容易ではない。

映像で一度確認された行動と、その行動の生態学的な意味を証明することは同じではないのである。

「マント」は深海で生きる方法の一部

コウモリダコの膜について、現在かなり確実に言えることがある。

八本の腕をつなぐ大きな膜は、危険時に腕とともに反転させることができ、コウモリダコの外見を大きく変化させる。これは実際に観察されている行動であり、防御との関係は強い。

一方、「膜が捕食者をどれほど驚かせるのか」「身体のどの部分を守る効果が最重要なのか」「食物処理や遊泳にどれほど貢献しているのか」といった細部には、まだ推定の余地がある。

コウモリダコが暮らすのは、暗く、冷たく、場所によっては酸素も非常に少ない海である。その環境では、いつでも全速力で戦ったり逃げたりする生活より、少ないエネルギーで食べ、危険をかわす能力が重要になる。

八本の腕をつなぐ黒い膜は、そんな深海生活の中で生まれた一つの答えに見える。

ただし、その答えの全文を私たちはまだ読めていない。深海探査によって次の行動が撮影されれば、コウモリダコの「マント」には、今知られていない役割がさらに見つかる可能性がある。