海溝は「海の底の底」であり、同時に物質の受け皿でもある
海溝の最深部には、ただ岩盤がむき出しになっているわけではない。場所によっては泥や砂、火山灰、生物由来の粒子、有機物を含む堆積物が重なり、長い時間の記録をつくっている。
なぜ、これほど深い場所に物質が集まるのだろうか。
重要なのは、海溝が単に「深い穴」だからではない。多くの海溝には急な斜面があり、その下に細長い海溝軸や局地的な盆地が続く。上方から沈んでくる粒子だけでなく、斜面にいったん積もった堆積物まで、重力によってより低い場所へ移動しうる。この地形的な集積作用のため、海溝、とくにハダル帯の一部は堆積物や有機炭素の「集積域」として機能すると考えられている。複数の海溝を比較した研究でも、継続的な物質の集中と、まれに起こる大規模な斜面崩壊の両方が堆積に関わることが示されている。
ただし、「海溝ならどこでも大量に堆積する」と単純化することはできない。海溝の形、斜面の傾斜、海底谷の有無、周辺海域の生物生産、陸からの物質供給、地震活動などによって、堆積のしかたは大きく変わる。
物質は上からだけでなく、横からもやってくる
深海底に届く物質というと、海面付近からゆっくり沈んでくる「マリンスノー」を思い浮かべやすい。植物プランクトンや動物プランクトンの遺骸、糞粒、微細な鉱物粒子などが沈降し、その一部が深海底まで達する。このような鉛直方向の供給は、海溝の堆積物をつくる基本的な経路の一つである。
しかし海溝では、横方向の輸送も無視できない。
海溝斜面や、そのさらに上の大陸斜面・海底には、すでに多量の堆積物がたまっている。それが海底の流れや斜面の崩壊によって再び巻き上げられ、より深い場所へ運ばれることがある。日本海溝の研究では、海溝に蓄積する有機物が、表層海洋から直接沈んできたものだけでなく、斜面などから横方向に運ばれた再堆積物を含むことが示されている。
つまり海溝底の泥は、その真上の海だけを記録しているとは限らない。遠く離れた斜面で以前に堆積した物質や、陸起源の成分が混ざることもある。そのため、堆積物の年代や有機物の起源を読み解くには、「どこから運ばれてきたのか」を考える必要がある。
地震は堆積物を一気に深部へ送ることがある
海溝に物質が集まる理由を理解するうえで、とくに重要なのが地震である。
沈み込み帯の海溝周辺では、大地震によって海底斜面の表層堆積物が広い範囲で不安定になり、崩落や重力流が発生することがある。水より高密度の粒子を多く含む流れは斜面を下り、細粒物質を深い盆地へ運ぶ。こうしたイベントは、普段のゆっくりした沈降とは異なり、短時間に厚い堆積層をつくりうる。
2011年の東北地方太平洋沖地震後の日本海溝では、高解像度の海底地形データ、海底下探査、堆積物コアを組み合わせた研究により、地震に伴って斜面の表層堆積物が再移動し、海溝軸の盆地へ広く堆積したことが確認された。研究では、この一連のイベントで大量の有機炭素も海溝深部へ輸送されたと推定されている。
ここで重要なのは、「海溝の堆積物は毎年同じ速度で積もる」とは限らないことだ。平穏な時期に少しずつ積もる層の間へ、地震などに伴うイベント層が突然挟み込まれる。日本海溝では、海溝軸に沿う複数の盆地から多数の再移動イベント層が識別され、一部は歴史時代の巨大地震と対応づけられている。
ただし、堆積層を見れば過去のすべての地震が分かるわけではない。同じ地点に堆積物が届かなかった地震もありうるし、後の攪乱で記録が変形することもある。年代測定にも誤差がある。そのため、イベント層と特定の地震との対応は、海底地形、音響探査、年代測定など複数の証拠を組み合わせて判断される。
「じょうご効果」は便利なイメージだが、万能ではない
海溝はしばしば、物質を集める「じょうご」にたとえられる。斜面に落ちた粒子が低い方へ移動し、最終的に海溝軸へ集まるというイメージは、基本的な地形効果を理解するには分かりやすい。
しかし実際の海溝底は、滑らかな一本の溝ではない。段差、尾根、斜面、海底谷、閉じた盆地などが組み合わさっている。日本海溝でも、海溝軸には多数の独立した堆積盆があり、ある場所には大量の堆積物が集まる一方、別の場所には同じ量が届かない。海底谷が流れを集中的に導く場合もある。
したがって、より正確には「海溝という大地形が物質を深部へ集中させやすく、その内部の細かな地形が最終的な堆積場所を決める」と考えた方がよい。
さらに、海面付近でどれだけ有機物が生産されるかも無関係ではない。アタカマ、千島・カムチャツカ、ケルマデック、マリアナという環境の異なる海溝を比較した研究では、表層海洋の生産性が異なる海域を対象に、放射性核種や全有機炭素を用いて堆積・蓄積過程が調べられている。結果は、海溝が有機物を集める傾向を支持する一方、その供給経路や堆積速度にはなお大きな不確実性があることも示している。
堆積物は深海生物にとって「食料庫」であり「地面」でもある
海溝へ集まる有機物は、単なる地質学的な記録ではない。生物にとっては利用可能なエネルギー源になりうる。
深海では太陽光を使った光合成ができないため、多くの生態系は表層から供給される有機物や、化学合成によってつくられる有機物に依存する。海溝底に有機物を含む堆積物が集中すれば、微生物による分解や炭素循環が活発になる場所が生まれる。ハダル帯では、堆積物中の酸素消費などから、有機物の分解が重要な過程であることが現場測定によって示されている。
また堆積物そのものが、微生物、小型底生動物、より大きな底生生物にとって生活場所になる。粒径、酸素の入り込み方、有機物量、化学状態が変われば、そこに暮らせる生物群集も変わる可能性がある。
一方で、有機物が「多く集まる」ことと、「そのまま長期間保存される」ことは同じではない。堆積した有機物の一部は微生物などに分解され、二酸化炭素や他の化学物質へ変換される。どれほどが分解され、どれほどが深く埋没して長期保存されるのかは、海溝ごと、地点ごとに異なる。
海溝の泥から何が読み取れるのか
研究者は堆積物コアを採取し、深さ方向の変化を調べる。粒径、密度、有機炭素、化学組成、微化石、放射性同位体などを分析すると、いつ、どのような物質が運ばれてきたのかを推定できる。
たとえば、普段の細かな堆積とは異なる厚い均質層が見つかれば、大規模な再移動イベントの可能性が検討される。放射性炭素や鉛210、セシウム137などの情報は、年代や堆積速度、表層堆積物の再移動を評価する手掛かりになる。実際に複数のハダル海溝を比較した研究では、こうした核種の分布と有機炭素量から、定常的な堆積と離散的な斜面崩壊イベントの両方が識別されている。
ただし、海溝堆積物は「きれいに年代順に積もった年表」ではない。古い物質が後から運び込まれれば、堆積した時刻と、その粒子自体が形成された時刻は一致しない。日本海溝の研究でも、再移動した有機物には由来や年代の異なる成分が混在しうることが指摘されている。
この複雑さこそが、海溝堆積物を読む難しさであり、面白さでもある。
まだ分かっていないのは「どれほど重要な集積場なのか」
現在の観測から、少なくとも一部の海溝が、周辺より物質や有機炭素を集中させる場所として働くことはかなり確からしい。地形による集中、通常時の沈降、斜面からの横方向輸送、そして地震に伴う突発的な再堆積が、その主な仕組みとして支持されている。
一方、地球全体の深海で見たとき、海溝が炭素や堆積物の長期保存にどれほど大きな割合を占めるのかは、まだ十分に決着していない。海溝ごとの観測点が限られ、巨大地震のように数百年以上の間隔で起こる現象を直接観測できる期間も短いからである。物質の供給経路そのものについても、研究論文で十分に制約されていないとされている。
海溝の底に積もる泥は、静かに降り続ける粒子だけでできているわけではない。斜面を下る流れ、地震による再移動、海の生物生産、陸から届く物質が重なり合い、一本の複雑な記録をつくる。
最深部の堆積物は、深海生物の暮らしを支える基盤であると同時に、海洋の炭素循環と地震の歴史を読み解く資料でもある。暗い海溝の底に積もった一層の泥には、上の海と周囲の大地、そして地球内部の活動までがつながっている。