深海生物図鑑

深海魚はなぜ浮き袋を持たないことがあるのか

深海魚というと、暗い海をゆっくり漂う姿を思い浮かべるかもしれない。ところが、その体を水中に浮かせる仕組みは、浅い海の魚と同じとは限らない。

多くの硬骨魚類は、体内にある「浮き袋」の体積を調節することで、水中で沈みすぎたり浮きすぎたりしないようにしている。しかし深海魚には、浮き袋を持たない種類や、浮き袋が小さくなっている種類もいる。

なぜ、浮くために便利そうな器官を手放すことがあるのだろうか。

その理由は「深海では浮き袋が水圧につぶされるから」と一言で説明できるほど単純ではない。深海魚の浮力を理解するには、水圧、体の密度、生活場所、移動の仕方、そしてエネルギーの使い方を合わせて考える必要がある。

そもそも浮力とは何か

水中にある物体には、重力によって下向きに引かれる力と、水から受ける上向きの浮力が働く。

魚の体全体の平均密度が周囲の海水より大きければ沈みやすく、逆に小さければ浮きやすい。両者がほぼ釣り合えば、魚は大きな力を使わずに一定の深さにとどまりやすくなる。これが「中性浮力」に近い状態である。

魚の体をつくる筋肉や骨などは、そのままでは海水より重い部分を含む。そのため、多くの硬骨魚類ではガスを入れた浮き袋が浮力の調節に利用されている。

ガスは水や筋肉より密度がはるかに低い。体内に一定量のガスを持てば、魚全体の平均密度を下げることができる。

浅い海では非常に便利な仕組みだが、深海では事情が複雑になる。

深くなるほどガスは圧縮される

海では深く潜るほど水圧が高くなる。海水中では、おおまかには深さ10メートル増すごとに約1気圧分の圧力が加わる。

重要なのは、高い圧力そのものだけではなく、**ガスの体積が圧力によって変化する**ことである。

魚が深い場所へ移動すると、浮き袋内のガスは圧縮される。浮き袋が小さくなれば浮力は減り、魚はさらに沈みやすくなる。逆に上昇すればガスが膨張し、浮力が増してさらに上昇しやすくなる。

したがって、上下方向に大きく移動する魚にとっては、ガス量を適切に調節することが重要になる。

ただし、「深海では水圧によって浮き袋が完全につぶれて使えなくなる」という説明は正確ではない。

生きている魚では、浮き袋内部の圧力も周囲の水圧に対応して高くなり得る。実際、深い海に暮らしながらガスを含む浮き袋を持つ魚もいる。

問題は、深海で十分な量のガスを維持し、その量を調節するための生理的な負担である。

深海でガスを維持するにはコストがかかる

浮き袋を持つ魚の中には、血液からガスを浮き袋へ送り込む仕組みを備えたものがいる。

深海では周囲の圧力が非常に高いため、浮き袋にガスを送り込むには、それに見合う高い圧力条件をつくる必要がある。浅い場所で浮き袋を膨らませる場合より、単純な環境ではない。

そのため、深海生活では「ガスを使う浮力調節」が常に最良とは限らない。

浮き袋を維持する利益よりも、別の方法で体を軽くしたほうが有利な生態も考えられる。

ここで大切なのは、深海魚全体が一つの方向へ進化したわけではないという点である。深海には浮き袋を持つ魚もいれば、持たない魚もいる。その違いは、深度だけでなく、それぞれの生活様式とも関係している。

浮き袋がなくても体を軽くできる

浮き袋を持たない深海魚は、必ずしも重い体を筋力だけで支えているわけではない。

浮力を得る方法は、ガス以外にもある。

### 水分の多い組織

深海魚の中には、体が柔らかく、水分を多く含むものがいる。

水に近い密度の組織を増やせば、体全体の密度を海水に近づけることができる。重い骨や筋肉を大量に持つ魚より、沈む力を小さくしやすい。

深海魚に見られる柔らかな体は、単なる「弱さ」ではない。餌が少なく、高い運動能力を常時必要としない環境では、体を重くする組織を減らすことがエネルギー節約につながる可能性もある。

### 骨格を軽くする

骨には密度の高い成分が含まれるため、骨格が頑丈になるほど浮力の面では不利になりやすい。

一部の深海魚では、骨格の石灰化が比較的弱かったり、骨そのものが軽量化したりしている。

もちろん、すべての深海魚の骨が弱いわけではない。しかし、激しく泳いだり強い衝撃に耐えたりする必要が小さい生活では、重い骨格を維持しないことが合理的な場合がある。

### 脂質を利用する

脂質には海水より密度の低いものがあり、体内に蓄えることで平均密度を下げる効果が期待できる。

ガスと違い、液体や脂質は圧力による体積変化が比較的小さい。そのため、深度が変化しても浮力が急激に変わりにくいという利点がある。

ただし、どの深海魚がどの程度脂質を浮力調節に利用しているかは種類によって異なる。深海魚一般について「脂肪で浮いている」とまとめるのも正確ではない。

海底で暮らすなら、中性浮力でなくてもよい

もう一つ重要なのが、魚がどこで暮らしているかである。

水中を常に漂い続ける魚にとって、浮力の調節は重要だ。しかし海底に接して生活する底生魚なら、多少沈みやすくても大きな問題にならない場合がある。

むしろ海底近くで餌を探す生活では、強く浮き上がる体は不便になる可能性さえある。

そのため、「浮き袋を持つかどうか」は深さだけで決まるのではなく、

- 水中を漂って暮らすのか

- 海底付近を泳ぐのか

- 海底に接している時間が長いのか

- 日常的にどれほど上下移動するのか

といった生態とも深く関係する。

同じ「深海魚」という言葉で呼ばれていても、その暮らし方は大きく異なるのである。

上下移動する魚には別の問題もある

浮き袋を持つ魚にとって、とくに難しいのが急激な深度変化である。

深い場所から急速に上昇すると、周囲の圧力が低下し、浮き袋のガスが膨張する。自然状態では魚自身の調節機構や行動によってある程度対応できる場合があるが、漁具などによって急速に引き上げられれば調節が追いつかないことがある。

その結果、体内のガスが大きく膨張し、臓器に影響を与えることがある。

深海魚が水面に引き上げられたとき、採集直後の姿が本来の姿と異なることがあるのも、このような圧力変化が関係する場合がある。

したがって、船上で撮影された深海魚だけを見て、生きているときの体形や浮力の状態を推測する際には注意が必要である。

「深いほど浮き袋がなくなる」とは限らない

深海魚について語るとき、単純な法則を作りたくなる。

「水圧が高いから浮き袋がない」という説明もその一つだ。

しかし実際には、深海に生息する魚の浮力戦略は多様である。ガスを含む浮き袋を利用する種類もいれば、浮き袋を縮小・喪失した種類もいる。体組織の密度を低くするものもいれば、海底生活によって中性浮力そのものへの依存が小さいものもいる。

つまり、浮き袋の有無は「何メートルより深ければなくなる」といった単純な境界だけで決まるものではない。

系統、食性、遊泳能力、深度移動、成長段階など、複数の要因が関係すると考えるほうが自然である。

超深海の魚はどう浮いているのか

海溝など極端に深い場所にも魚類は生息している。

こうした超深海の魚では、ガスを含む浮き袋に頼らず、柔らかな体や軽い骨格などによって体全体の密度を調節していると考えられる例がある。

ただし、超深海魚の浮力を野外で直接測定することは簡単ではない。

深海探査機の映像から泳ぎ方を観察することはできても、その個体の体密度、脂質量、組織構成、浮力を同時に正確に測定できるとは限らない。捕獲すれば、今度は減圧によって生きていたときの状態が変化する可能性がある。

そのため、「この形質が浮力にどれほど寄与しているのか」については、解剖、化学分析、映像観察など複数の証拠を組み合わせて推定する必要がある。

浮力から見えてくる深海魚の生き方

浮き袋を持たない深海魚を見ると、何か重要な器官を失ったように感じるかもしれない。

しかし、生物にとって重要なのは器官を多く持つことではない。その環境で生き残り、繁殖できる体であることだ。

高水圧の下でガスを維持する。体を水に近い密度にする。骨格を軽くする。脂質を利用する。あるいは海底生活を選び、そもそも完全な中性浮力を必要としない。

深海魚は、それぞれ異なる方法で「沈む力」と「浮く力」の折り合いをつけている。

そして現在も、深海魚が野生状態でどのように浮力を微調整し、成長や摂食による体重変化をどう補い、日常的な深度移動と浮力調節をどう両立しているのかについて、種類ごとに分かっていないことは多い。

暗い海で静かに浮かぶ一匹の魚。その姿は、ただ水中に漂っているのではない。高圧の世界で体の密度とエネルギー消費を調整し続けた進化の結果なのである。