深海生物図鑑

深い海では音はどのように伝わるのか

暗闇の深海を満たしている「音」

深海というと、光も音もない静寂の世界を想像しやすい。しかし実際には、海の中にはさまざまな音が存在している。波や雨、地震、海底火山、船舶、クジラなどが音を生み、それらは水中を遠くまで伝わっていく。

むしろ深海では、光より音のほうがはるかに遠くまで届く。太陽光は水に吸収され、深くなるにつれて急速に弱くなるのに対し、音波は条件によっては数百km、さらに長い距離を伝わることがある。

そのため人間が深海を調べるときも、音は重要な手掛かりになる。海底の地形を測ったり、潜水機の位置を確認したり、生物の存在を探ったりするために、音響技術が広く利用されている。

では、深い海では音はどのように進むのだろうか。

水中の音は空気中より速い

音は、水そのものが遠くまで移動する現象ではない。水分子の振動が隣の水分子へ伝わり、その変化が波として進んでいく。

海水中での音速は、おおむね毎秒1500m前後である。空気中の音速が毎秒340mほどなので、水中ではおよそ4倍以上の速さになる。

ただし、海のどこでも同じ速度ではない。

海水中の音速を左右する主な条件は、

- 水温

- 塩分

- 水圧

である。

一般に、水温が高くなると音速は速くなる。塩分が高くなっても速くなり、水圧が高くなる、つまり水深が増すことによっても音速は上昇する。

深海では、この三つの条件のうち、とくに水温と水圧の組み合わせが音の伝わり方を大きく左右する。

音はまっすぐ進むとは限らない

海面近くでは太陽によって海水が温められているため、水温が比較的高い。一方、その下には水温が急激に低下する層が形成されることがある。

水温が下がれば音速も低下するため、ある深さまでは深くなるほど音が遅くなる場合がある。

ところが、さらに深くなると事情が変わる。

深海では水温の変化が小さくなり、水深とともに増大する水圧の影響が目立つようになる。そのため、今度は深くなるほど音速が上昇していく。

こうして海中には、周囲より音速が低い深さが生じることがある。

音波は音速の異なる海水の層を通過するときに屈折する。そして条件が整うと、音速の遅い層へ向かって繰り返し曲がるように進む。

この仕組みによって、音が海面や海底にぶつかりにくいまま長距離を伝わる領域が形成されることがある。これは一般に**深海音波チャネル**、あるいはSOFARチャネルと呼ばれている。

その深さや構造は海域、季節、水温、緯度などによって異なるため、「世界中の海で一定の深さに存在する一本の音の通り道」と考えるのは正確ではない。

低い音ほど遠くまで届きやすい

海水は音のエネルギーを少しずつ吸収する。

重要なのは、その吸収の大きさが音の周波数によって異なることだ。一般には、高い周波数の音ほど減衰しやすく、低い周波数の音ほど長距離を伝わりやすい。

この性質は深海の音環境を考えるうえで非常に重要である。

高い音は細かな情報を得るのに向いているが、遠くまでは届きにくい。一方、低い音は細かな対象の識別には不利でも、広い海域を伝わる可能性がある。

人間が使用する音響観測装置も、目的によって周波数を使い分けている。

また、一部の大型鯨類が低い周波数を含む声を発することもよく知られている。ただし、特定の鳴き声がどこまで届き、どの範囲で仲間との情報交換に利用されているのかは、海況や周囲の騒音によって変わる。「低い声なら必ず数千km先の仲間と会話できる」と単純化することはできない。

深海にはどんな音があるのか

深海で観測される音の発生源は、生物だけではない。

地球そのものが多くの音を生み出している。

海底地震が起これば海水にも振動が伝わる。海底火山の活動や海底地すべりなども音響信号を発生させることがある。さらに海面では、波、風、雨などによって絶えず音が作られている。

人間活動による音も存在する。船舶の航行、資源探査、各種ソナーなどによる音は海中を伝播し、条件によっては深い場所にも届く。

そしてもちろん、生物も音源になる。

クジラ類のように明確な発声が知られている動物だけでなく、魚類や甲殻類などにも音を出す種がいる。ただし、「深海生物全体がどれほど音を利用しているのか」という問いになると、分かっていない部分が多い。

深海では生物を直接観察すること自体が難しく、録音された音が何によって発せられたものなのか特定できない場合もあるからだ。

音が記録されたからといって、その発生源をただちに特定の生物と結びつけられるわけではない。

音を聞けば深海が見えてくる

深海研究では、音を「聞く」だけでなく、自分から音を送り、その反射を調べる方法も使われている。

代表的なのが音響測深である。

船などから海底へ向けて音波を送り、反射して戻ってくるまでの時間を測れば、音速を考慮することで海底までの距離を推定できる。

さらに多数の音波を利用するマルチビーム音響測深などによって、広い範囲の海底地形を立体的に調べることも可能になった。

魚群探知機も基本的には似た考え方を利用している。生物や海底などによる音波の反射を解析し、水中に存在する物体の位置や性質を推定する。

ただし、音響反射だけで生物の種を必ず判別できるわけではない。対象の大きさ、体の構造、姿勢、装置の周波数などによって反射の特徴は変わるからである。

そのため深海生物の研究では、音響観測とカメラ映像、採集標本、環境データなどを組み合わせることが重要になる。

深海生物にとって音はどれほど重要なのか

光のほとんど存在しない深海では、音が重要な感覚情報になっていても不思議ではない。

実際、魚類を含む多くの水生動物には、水中の振動や音を感じ取る能力がある。魚類では内耳に加えて、体の側面にある側線系によって近くの水流や振動を感知できる。

しかし、ここで注意したいのは、浅海の魚について分かっていることを、そのまますべての深海魚へ当てはめることはできないという点である。

深海には多様な環境がある。海底近くで暮らす種もいれば、水中を漂う種もいる。活動的な捕食者と、ほとんど移動しない生物では必要とする感覚も異なる。

深海生物が音を使って仲間を探しているのか、捕食者を避けているのか、獲物を発見しているのか。種ごとの詳しい役割については、まだ十分に分かっていないものが少なくない。

特に、実際の深海で「どの生物が、いつ、何のために音を出したのか」を確認するには、録音と同時に発生源を観察する必要がある。この条件を満たす観測は容易ではない。

深海の「謎の音」は本当に謎なのか

海洋観測では、ときに発生源をすぐには特定できない音が記録される。

こうした記録は想像力を刺激し、「未知の巨大生物ではないか」と語られることもある。

しかし、発生源不明の音と未知の生物の存在は同じ意味ではない。

海には地震、氷の破壊、火山活動、船舶、生物など数多くの音源があり、遠距離から伝わった音は複雑に変化する。最初は原因不明だった音でも、その後の解析によって自然現象などと結びつけられる場合がある。

一方で、現在も起源を十分に説明できない音響信号が存在する可能性はある。それについては「未知の生物だ」と断定するのでも、「すべて既知の現象だ」と決めつけるのでもなく、観測を積み重ねる必要がある。

音の世界として見る深海

人間は視覚に頼りやすいため、深海探査というと潜水艇のライトに照らされた生物の映像を思い浮かべる。

しかし、深海を理解するための情報は光だけではない。

光がほとんど届かなくなった後も、音は海の中を進み続ける。地震の振動が伝わり、船の音が響き、生物が発した音が水中を走る。そして人間はその性質を利用して、暗闇の向こうにある海底を測っている。

それでも、深海の音環境が完全に解明されたわけではない。どの場所にどのような音が存在するのか、深海生物がそれをどのように感じ、利用しているのかについては、観測の難しさもあって未知の部分が残っている。

深海は、単なる「暗く静かな世界」ではない。

目には見えなくても、そこには絶えず振動が行き交う、もう一つの海の風景が広がっている。