深海生物図鑑

深海でにおいはどのような手がかりになるのか

深海では、遠くの獲物を目で見つけることは難しい。太陽光は水中を進むにつれて弱まり、十分に深い場所では昼でも暗闇が広がる。それでも海の中には、絶えずさまざまな情報が流れている。

その一つが、水に溶けた化学物質だ。

魚の死骸から漏れ出す成分、動物が放出した代謝物、餌となる生物の存在を示す物質。海流に運ばれるこれらの化学的な手がかりを感知できれば、光がなくても「何かがいる」ことを知ることができる。

私たちが日常的にいう「におい」とは少し仕組みが異なるものの、深海生物にとって化学感覚は、暗闇を読み解く重要な情報源になりうる。

海の中にも「におい」がある

人間の嗅覚では、空気中を漂う揮発性の分子が鼻の中に入り、嗅覚受容体に結びつくことでにおいを感じる。

水中では事情が異なる。物質は水に溶けた状態で運ばれ、それを魚類や甲殻類などの感覚器が検出する。

そのため、深海生物について「においを嗅ぐ」と表現する場合、それは人間とまったく同じ方法で空気中の香りを感じているという意味ではない。より正確には、水中の化学物質を感知する**化学感覚**の一部として考える必要がある。

魚類では嗅覚器官が水中の化学物質を検出する。一方、甲殻類などでは触角などに存在する化学受容器も重要であり、「におい」に相当する情報の受け取り方は動物群によって異なる。

つまり深海では、一つの「鼻」が世界を読み取っているのではない。さまざまな感覚器が水中の化学情報を拾っているのである。

暗闇では、化学情報が遠くから届く可能性がある

視覚には大きな制約がある。

深海では背景となる太陽光がほとんど、あるいはまったく存在しない領域があり、生物発光を利用する動物もいるものの、常に周囲を明るく照らしているわけではない。泥の中や岩陰に餌があれば、そもそも見ることができない。

それに対して、水に溶けた物質は海水とともに移動する。

たとえば海底に動物の死骸が沈めば、その組織からさまざまな化学物質が周囲の水へ拡散する。さらに海底付近の流れによって運ばれれば、死骸そのものが見えない位置にいる動物にも、その存在を示す情報が届く可能性がある。

深海の腐肉食動物が餌へ集まる現象を考えるうえで、こうした化学感覚は重要な要素と考えられている。

ただし、「においが何キロメートル先まで届く」と単純に決めることはできない。

化学物質の広がり方は、海流の方向と速さ、海底地形、水温、乱流、物質の性質などによって変化する。濃度も時間とともに低下していく。

したがって深海のにおいは、周囲へ均一に広がる霧というより、流れによって形を変え続ける化学物質の帯として考えるほうが実態に近い。

においは「方向」まで教えてくれるのか

化学物質を感じただけでは、発生源がどこにあるのかは分からない。

そこで重要になるのが、水の流れである。

ある動物が餌由来の化学物質を検出し、その濃度変化と流れの方向を利用できるなら、発生源へ近づくことができる可能性がある。甲殻類や魚類では、化学刺激に対して移動行動が変化することが知られており、化学感覚と水流の情報を組み合わせて行動していると考えられる例もある。

しかし、深海で暮らすすべての生物が同じ方法でにおいを追跡しているわけではない。

実際の深海では流れが複雑で、化学物質の濃度は滑らかに「こちらへ行けば濃くなる」という分布になるとは限らない。乱流によって高濃度の水と低濃度の水が断続的に通過することもある。

そのような環境で動物がどの情報を使い、どのような行動規則で発生源へ到達しているのかは、種によって異なると考えられ、詳しく分かっていないものも多い。

落ちてきた死骸を探す手がかり

深海における化学感覚の重要性が分かりやすく表れる場面の一つが、腐肉の探索である。

海底へ魚や大型動物の死骸が沈むと、それは周囲の動物にとって貴重な食物になることがある。

深海には、こうした餌へ比較的速く集まる魚類や甲殻類がいる。深海調査では餌を取り付けた装置やカメラが用いられることがあり、時間がたつにつれて動物が集まってくる様子が観察される。

このような行動には、餌から放出された化学物質の検出が関わっていると考えられている。

深海では餌がいつ、どこに現れるか予測しにくい。広い海底を無作為に泳ぎ回って偶然死骸へ衝突するだけでは効率が悪い。

水流に乗って運ばれてきた化学情報を利用できれば、直接見えない餌の存在を知ることができる。その意味で嗅覚やその他の化学感覚は、散発的に現れる食物を見つけるための有力な仕組みになる。

もっとも、動物が餌へ到達する過程をすべて嗅覚だけで説明できるとは限らない。近距離では視覚、触覚、水流の検知など、別の感覚も組み合わされている可能性がある。

食べ物以外の情報も化学物質に含まれる

化学感覚が知らせるのは、餌の存在だけではない。

浅い海や淡水を含むさまざまな水生動物では、同種個体、捕食者、繁殖相手、生息環境などに関係する化学物質を感知する例が知られている。

深海生物についても、同様に化学情報が社会行動や繁殖、生息場所の選択に利用されている可能性がある。

ただし、ここは餌探索の場合より慎重に考える必要がある。

深海動物の繁殖行動を自然環境で長期間観察すること自体が難しいため、「ある種が特定の化学物質を使って何を判断しているのか」まで詳しく解明されていないケースは少なくない。

特に個体密度の低い深海生物では、離れた相手をどのように発見しているのかという問題は興味深い。化学感覚がその一部を担っている可能性はあるが、それだけで説明できると断定することはできない。

深海なら嗅覚は必ず発達する、とは限らない

暗い環境と聞くと、「目が使えない代わりに嗅覚が非常に発達する」と考えたくなる。

しかし、生物の進化はそれほど単純ではない。

深海には視覚を重要な感覚として使う魚類もいれば、長い触角を備えた甲殻類もいる。生物発光を利用する種もいる。海底に暮らす動物と水中を泳ぐ動物でも、必要となる情報は違う。

嗅覚器官が大きいからといって、その生物が必ず他種より優れた嗅覚を持つと単純に判断することもできない。感覚能力を比較するには、受容体、生理反応、神経系、行動など複数の情報が必要になる。

したがって、「暗い深海では視覚が失われ、その代わりに嗅覚が発達した」という一つの図式をすべての深海生物へ当てはめるのは正確ではない。

深海には、それぞれ異なる感覚の組み合わせで環境を読み取る生物がいる。

研究者はどうやって「においを感じている」と調べるのか

深海生物の嗅覚研究には大きな難しさがある。

人間は動物が感じている感覚を直接知ることができない。そのため、感覚器官の構造、生理的反応、遺伝子、そして刺激を与えたときの行動などから推定することになる。

餌を使った実験や観察では、ある化学的な刺激の存在によって動物の移動や探索行動が変われば、その刺激を検出している可能性を調べる手がかりになる。

一方、深海では現場そのものが研究を難しくする。

高い水圧、低い水温、暗闇という条件を保ったまま生物を採集して実験することは容易ではない。船上へ引き上げたときの環境変化が、生物の状態や行動に影響する可能性もある。

さらに、自然環境では海流、地形、他の生物、複数の化学物質などが同時に作用する。

実験室で「この物質に反応した」と確認できても、実際の深海で同じ物質をどのように利用しているかは別の問題なのである。

私たちには見えない「化学の風景」

人間にとって深海は、ほとんど何も見えない暗闇に見える。

しかし、そこに情報がないわけではない。

水は動き、その中を無数の物質が運ばれている。餌となる死骸から漏れ出した成分、生物が放出した物質、海底環境から供給される化学物質。その分布は絶えず変化している。

化学感覚を持つ生物にとって、深海は単なる無色無臭の空間ではないのかもしれない。

そこには人間の目には見えない「化学の風景」があり、生物はその一部を読みながら移動し、餌を探し、危険を避けていると考えられる。

ただし、個々の深海生物がその風景をどれほど細かく識別し、どの化学物質をどの目的で利用しているのかは、まだ分からないことが多い。

暗闇の世界を理解するには、光だけを考えていては足りない。

深海では、水そのものが情報を運んでいる。その見えない情報を生物がどのように読み取っているのかを解明することは、深海の生態を知るための重要な課題の一つである。