深海生物図鑑

海底の泥はどんな生物を支えるのか

深海の海底を映した映像では、広い範囲が灰色や褐色の泥に覆われていることがある。岩礁や熱水噴出孔のような派手さはない。しかし、その一見静かな泥の中には、細菌や古細菌、原生生物、線虫、多毛類、甲殻類など、多様な生物が暮らしている。

深海の堆積物は、単なる「海底にたまった土」ではない。上の海から落ちてくる有機物を受け止め、生物のすみかとなり、さらに炭素や窒素などの物質循環にも関わる巨大な反応の場である。

海底の泥を調べることは、深海生物が何を食べているのかだけでなく、海洋全体で物質がどのように移動しているのかを知る手がかりにもなる。

深海の泥はどこから来るのか

海底の堆積物には、さまざまな起源の粒子が混ざっている。

陸から運ばれた鉱物粒子、火山活動による物質、海中でつくられた生物の殻や骨格、そして生物の死骸や排出物などである。海域や水深によって、その割合は大きく異なる。

深海では、海面付近で生産された有機物の一部もゆっくりと沈んでくる。

植物プランクトンや動物プランクトンの死骸、糞粒、粘液、微細な粒子が集合したものは、一般に「マリンスノー」と呼ばれる。大部分は海底へ到達する前に分解されたり、途中の生物に食べられたりするが、一部は深海底まで沈降する。

そのため海底の泥には、鉱物だけでなく、生物に利用できる有機物も含まれている。

ただし、深海底に大量の食物が常に降り積もっているわけではない。多くの深海では有機物の供給量が限られており、海底生物は希薄な資源を利用しながら生活していると考えられている。

泥の中には小さな生物世界がある

海底表面を見ても、そこにいる生物の大部分は見えない。

堆積物の粒と粒の間には海水が入り込み、その微小な空間にさまざまな生物が存在する。

特に重要なのが細菌や古細菌などの微生物である。

海底へ届いた有機物は、まず大型動物だけが食べるわけではない。微生物によって分解され、その過程で炭素、窒素、硫黄などの元素が別の化学形態へと変化していく。

さらに、線虫などの小型動物、原生生物、有孔虫なども堆積物中に生息する。

肉眼で確認できる大きさになると、多毛類、二枚貝、端脚類などの甲殻類、ナマコ類などが海底表面や泥の内部を利用する。

つまり、深海の泥は一枚の平らな地面ではない。

顕微鏡的な空間まで含めれば、無数の生物が食べ、排出し、移動し、分解を続ける立体的な生態系なのである。

酸素がある泥と、酸素が少ない泥

同じ泥の中でも、環境は均一ではない。

海水と接している表面付近には酸素が供給される。一方、泥の内部へ進むにつれて、微生物の呼吸などによって酸素が消費される。

そのため堆積物内部には、深さによって化学環境が変化する層が形成されることがある。

酸素が利用できる場所では酸素を使った代謝が行われ、酸素が乏しくなると、微生物は硝酸塩や硫酸塩など別の物質を利用する代謝へ移っていく。

こうした反応は、堆積物の色や間隙水に含まれる化学物質にも影響する。

ただし、酸素がどこまで浸透するかは海域によって異なる。有機物の供給量、海底水の酸素濃度、堆積速度、生物による泥のかき混ぜなど、多くの条件が関係するためである。

「深海の泥の内部はすべて無酸素」と考えるのは正確ではない。

泥をかき混ぜる動物たち

海底生物は、堆積物の上に乗っているだけではない。

多毛類や甲殻類などの中には泥へ潜るものがあり、ナマコ類などには堆積物を取り込み、含まれている有機物や微生物を利用するものがいる。

生物が泥を掘ったり、食べたり、排出したりすることで、堆積物の粒子は移動する。

この作用は「生物撹拌」と呼ばれる。

巣穴をつくる生物が海水を泥の内部へ送り込めば、酸素や溶存物質の移動も変化する。その結果、微生物活動や有機物の分解速度まで影響を受ける可能性がある。

泥を食べる一匹の動物の行動が、その周囲の化学環境まで変えているのである。

海底の泥は静止しているように見えても、生物活動によって絶えず作り替えられている。

海底に届いた死骸は泥の生態系を変える

通常の深海底では食物供給が少ない一方、ときには大量の有機物が局所的に到達する。

魚類や大型動物の死骸などである。

そのような有機物が海底へ沈むと、腐肉を食べる動物が集まり、続いて微生物による分解が進む。周囲の堆積物へ有機物が移動すれば、泥の中の微生物群集や化学環境も変化する。

クジラの死骸が海底へ沈んだ「鯨骨生物群集」は、その極端な例としてよく研究されている。

しかし、すべての深海底で同じようなイベントが頻繁に起こるわけではない。通常の有機物供給と、まれに発生する大量供給の両方を考える必要がある。

化学合成生態系も堆積物と結びついている

海底の生態系を支えるエネルギーが、必ずしも海面から落ちてきた有機物だけとは限らない。

冷湧水など、一部の海底ではメタンや硫化水素などの化学物質が供給される。

そこでは、それらの物質を利用する微生物が有機物をつくり、その生産が周囲の生物群集を支える場合がある。

つまり堆積物は、上から落ちてくる食物を蓄える場所であるだけでなく、地下から供給される化学エネルギーと生態系が接触する場所にもなりうる。

ただし、これは一般的な深海泥底のすべてに当てはまる仕組みではない。冷湧水など特殊な地質環境で特に重要になる現象である。

泥を採取すると何が分かるのか

深海の堆積物研究では、海底から柱状の泥を採取する「コア試料」が重要な情報源になる。

採取した泥を層ごとに調べれば、粒子の種類、有機物、微生物、化学成分などを分析できる。

DNA解析を利用すれば、培養が難しい微生物を含め、どのような生物が存在している可能性があるかを調べることもできる。

また、海底カメラや無人探査機を使えば、ナマコ類、多毛類、甲殻類などが泥底でどのように行動しているかを観察できる。

化学センサーを使った測定からは、酸素などが堆積物内部でどのように変化するかも調べられる。

こうした複数の方法を組み合わせることで、「泥の中に何がいるか」だけでなく、「そこでどのような反応が起きているか」まで推定できる。

採取した泥だけでは分からないこともある

一方、深海堆積物の研究には難しさもある。

海底から試料を引き上げれば、水圧や温度などの条件が変化する。採取の際に堆積構造が乱れることもある。

さらに、コア試料が示すのは広大な海底のごく一部分にすぎない。

深海底は一見均一に見えても、有機物の量や粒子の大きさ、地形、底層流、生物活動などによって細かな違いが存在する。

ある地点で見つかった生物群集を、そのまま広い海域全体へ当てはめることはできない。

DNAが検出された場合も、その生物が現在そこで活発に生活しているとは限らない。周囲から運ばれてきたDNAや、過去の生物活動の痕跡が含まれる可能性も考える必要がある。

観察された事実と、そこから推定される生態を区別することが重要である。

深い泥のさらに下には何がいるのか

海底表面よりさらに深い堆積物からも、微生物の存在を示す証拠が得られている。

しかし、そこで検出される細胞がどの程度活動しているのか、どれほど低いエネルギー供給で生命を維持できるのかについては、現在も研究が続いている。

代謝が非常に遅い生物を研究する場合、短期間の観察だけでは活動を確認しにくい。

さらに、現在検出できる遺伝子や化学物質だけでは、生物活動の全体像を完全には再現できない。

深い海底下の生命圏がどこまで広がっているのか、そこに存在する生物が地球規模の炭素循環へどれほど影響しているのかについても、未解明な部分が残されている。

静かな泥は、深海の巨大な生態系である

深海底の泥は、何もない空間ではない。

海面から沈んできた有機物を受け取り、微生物が分解し、小型動物が利用し、大型の底生動物が泥をかき混ぜる。その過程で酸素や炭素、窒素、硫黄などの循環も変化する。

場所によっては、地下から供給される化学物質を利用する生態系まで成立する。

ただし、その仕組みは海域ごとに異なり、泥の内部で起きている活動の多くは直接観察することが難しい。

深海映像に広がる平坦な泥底は、空白ではない。

その表面の下には、人間の目ではほとんど見えない速度で物質を食べ、分解し、作り替え続ける生物世界が広がっている。深海の泥を理解することは、暗い海底の生態系だけでなく、海洋全体の物質循環を理解することにもつながっている。