深海底に、一匹の大型動物の死骸が沈んでくる。
光の届かない海底では、それは単なる「死」ではない。普段は食物が乏しい場所へ突然現れる、巨大なエネルギー源でもある。魚類や甲殻類が集まり、軟らかな組織を食べ、その後には小型の無脊椎動物や微生物が残された物質を利用していく。
死んだ生物を食物として利用することを**腐肉食**という。深海では、生きた獲物を追う捕食だけでなく、海の上層から落ちてくる死骸を利用することも重要な生存戦略の一つだ。
ただし、深海生物のすべてが腐肉食をするわけではない。また、ある生物が死骸の近くで見つかったからといって、必ずしも死肉だけを食べているとは限らない。深海の腐肉食を理解するには、実際に観察されていることと、そこから推定されていることを分けて考える必要がある。
食物の乏しい深海に落ちてくる「大きな一食」
海の表層では、植物プランクトンが太陽光を利用して有機物をつくる。その一部は動物に食べられ、排泄物や死骸などとなって下方へ沈んでいく。
細かな粒子がゆっくり降る現象は「マリンスノー」と呼ばれる。深海に暮らす多くの生物にとって、こうした上層からの有機物供給は重要だ。
しかし、ときには魚やイカ、海棲哺乳類など、比較的大きな動物そのものが死骸となって沈む。
これはマリンスノーとは性質が違う。広い海底に少量ずつ降り注ぐ食物ではなく、一か所に大量の有機物が集中して現れるからだ。
深海の動物にとって、そのような死骸は長いあいだ利用できる可能性のある資源となる。とくに大型の死骸では、一部の動物が食べ終えたあとも、骨や周囲の堆積物に有機物が残り、別の生物へと利用されていく。
死骸にはどのような生物が集まるのか
深海へ餌を設置し、カメラで集まる動物を記録する「ベイトカメラ」と呼ばれる方法では、死骸や魚肉などの餌にさまざまな動物が接近する様子が観察されている。
その代表例が、端脚類などの小型甲殻類である。深海性の端脚類には、動物質の餌へすばやく集まり、肉を食べる種が知られている。
ダイオウグソクムシを含む深海性等脚類にも、動物の死骸を利用するものがいる。ただし、こうした動物を単純に「死肉だけを食べる専門家」と考えるのは適切ではない場合がある。種によっては別の動物を捕らえたり、異なる種類の有機物を利用したりする可能性があるからだ。
深海魚にも、餌として置かれた魚肉や死骸へ接近するものがいる。
つまり深海の腐肉食者には、必ずしも「腐肉しか食べない」という共通点があるわけではない。利用できる食物が限られた環境では、機会があれば死骸も利用するという柔軟な食性が有利になる可能性がある。
暗闇の中で、どうやって死骸を見つけるのか
深海底は広い。そこへ死骸が落ちても、そのすぐ近くに腐肉食者がいるとは限らない。
それでも餌を設置した観察では、時間の経過とともに動物が集まってくることがある。このことから、少なくとも一部の深海生物には、離れた場所から餌の存在を感知する能力があると考えられている。
有力なのが化学感覚である。
死骸から溶け出した物質は海水中へ広がる。甲殻類や魚類のなかには化学物質を感知できる感覚器をもつものが多く、深海の腐肉食者も、水中を漂う化学的な手がかりを利用していると考えられる。
ただし、実際の深海では海流の向きや強さ、海底地形などが複雑に影響する。どの距離から、どれほど正確に死骸を発見できるのかは、生物種や環境によって異なる。
「深海生物は遠く離れた死骸を必ず嗅ぎつける」と単純化することはできない。
一つの死骸を、次々と別の生物が利用する
大型の死骸では、利用する生物が時間とともに変化することがある。
特によく研究されているのが、クジラ類の死骸が海底に沈んだ「鯨骨生物群集」である。
まず、比較的大きな腐肉食者が軟らかな組織を食べる。その後、残った組織や周辺にたまった有機物を小型の無脊椎動物などが利用する。さらに骨に含まれる有機物が微生物の活動に関係し、それを基盤とする生物群集が形成される場合もある。
ここで重要なのは、腐肉食が死骸の肉を直接かじる行動だけで終わらないことである。
ある生物の死骸は、まず大型動物の食物となり、その食べ残しや排泄物、変質した有機物が別の生物へ渡る。微生物による分解も加わり、一つの死骸から複数の経路で物質とエネルギーが生態系へ戻っていく。
大型死骸は、深海底に一時的な「食物の島」をつくるともいえる。
腐肉食者は深海の掃除屋なのか
腐肉食動物はしばしば「海の掃除屋」と表現される。
死骸を消費し、有機物を分解過程へ組み込むという意味では分かりやすい表現だ。しかし、生態学的には少し注意が必要である。
腐肉食者は人間のために海底を掃除しているわけではない。死骸を食べることは、彼ら自身がエネルギーや栄養を得る行動である。
その結果として、死骸に含まれていた物質が腐肉食者の体へ移り、さらに別の捕食者や微生物へ渡っていく。
深海の腐肉食は、「不要なものを処理する仕組み」というより、死によって生じた有機物を再び食物網へ組み込む過程として見るほうが実態に近い。
餌がいつ来るか分からない環境で生きる
深海底に大型動物の死骸がいつ沈んでくるかは予測できない。
そのため腐肉を利用する生物には、食物が見つかったときに効率よく利用する能力が重要だと考えられる。
一方で、「深海の腐肉食者はすべて長期間絶食できる」と一般化することはできない。絶食耐性や代謝速度、生存戦略は種によって異なるからだ。
深海は一般に低温で、食物供給も場所によって限られている。そのような条件では、常に大量の餌を必要とする生活より、限られた資源を利用する戦略が有利になる場合がある。
ただし、腐肉食への適応がどこまで深海環境そのものによって形成されたのか、それぞれの種について詳細が分かっているわけではない。
実験の餌と、本物の死骸は同じではない
深海の腐肉食研究では、魚などの餌を海底へ沈め、集まってくる生物を観察する方法が利用される。
これは暗い深海で動物の行動を調べるうえで非常に有効だ。しかし、この方法には限界もある。
人工的に設置した餌の種類や大きさは、自然界の死骸と完全には同じではない。餌を置く位置や時間によっても、集まる生物は変わりうる。
さらに、カメラに映った動物が何を目的として近づいたのかを映像だけで完全に判断できない場合もある。
したがって、「餌に来た」という観察結果と、「自然界でその生物がどれほど腐肉に依存しているか」という問題は区別する必要がある。
胃内容物、安定同位体などを用いた食性研究、現場観察など、複数の証拠を組み合わせることで、実際の食生活が少しずつ明らかになっていく。
死骸は深海生態系をどこまで支えているのか
深海へ沈む死骸が重要な食物源であることは確かだが、その重要度をすべての深海環境で同じように評価することはできない。
海底へ届く有機物の量は、海面付近の生物生産、深さ、海流、地形などによって変わる。熱水噴出域や冷湧水域のように、化学合成を基盤とする生態系が発達する場所もある。
深海と一言でいっても、その食物事情は均一ではない。
また、大型死骸が海底のどこへ、どのくらいの頻度で到達しているのかを広大な海全体で直接観測することは難しい。このため、腐肉が深海生態系全体へ与える影響には、現在も推定に頼る部分が残る。
深海では「死」も生態系の一部になる
深海底に横たわる死骸を見ると、生命活動が終わった場所のように感じられるかもしれない。
しかし、生態系の視点ではそこで新しい過程が始まっている。
腐肉食者が肉を食べ、小型動物が残された有機物を利用し、微生物がさらに分解する。大型の死骸であれば、その影響が長く続くこともある。
誰が最初に死骸を発見するのか。どれほど遠くから集まってくるのか。種ごとに腐肉へどの程度依存しているのか。自然界で大型死骸がどれほど頻繁に海底へ到達するのか。まだ十分に分かっていない問題は多い。
それでも確かなのは、光合成のできない深海へ、上層の生命が死骸という形でもエネルギーを運んでいることである。
暗い海底に沈んだ一つの死骸は、そこで終わるのではない。
別の生物の体となり、微生物に分解され、食物網の中を移動していく。深海の腐肉食は、死と生命が切り離されたものではなく、一つの物質循環の中でつながっていることを静かに示している。