深海にも「呼吸できる場所」と「できない場所」がある
深海は、どこまでも同じ暗い水で満たされているわけではない。水温、塩分、流れ、餌の量、そして溶存酸素の濃度によって、目には見えない環境の境界が幾重にも存在している。
その一つが、酸素の少ない水塊だ。海の中にはもともと、周囲より溶存酸素が少ない「酸素極小層」や「酸素極小域(OMZ)」が存在する。とくに表層と深海の間にあたる中深層で発達することがあり、そこでは生物が利用できる酸素量が上下の水層より少なくなる。
近年問題になっている「海洋の酸素減少」とは、こうした低酸素環境だけを指す言葉ではない。より広く、海水中に含まれる酸素が長期的に減っていく現象を意味する。
過去数十年の観測データを全球規模で解析した研究では、海洋全体の酸素量が1960年代以降減少してきたことが示されている。ただし減少の程度は海域や深度によって大きく異なり、すべての場所で一様に酸素が減っているわけではない。
深海で重要なのは、単純に「酸素が減る」ということだけではない。**酸素を利用できる場所と利用しにくい場所の境界そのものが移動する可能性がある**ことだ。
深い海の酸素はどこから来るのか
深海には太陽光が届かないため、そこで植物プランクトンが光合成して大量の酸素を供給することはない。深海の酸素の多くは、海面付近で大気と接して酸素を含んだ水が沈み込み、海洋循環によって運ばれてきたものだ。
一方、水中では生物の呼吸や、有機物を微生物が分解する過程で酸素が消費される。
海面付近でつくられた有機物の一部は「マリンスノー」などとして沈んでいく。その途中で動物や微生物に利用されるため、酸素も消費される。酸素の供給が遅く、消費が大きい水層では、結果として酸素濃度が低くなりやすい。東部熱帯大西洋などで行われた深海観察でも、生物量や有機物の沈降、海水の循環と関連して中深層に酸素極小域が形成されることが確認されている。
地球温暖化は、この収支に複数の経路で関係する。
水温が高くなるほど、水に溶け込める酸素量は少なくなる。また、表層の温暖化によって海水の密度構造が変化し、上下方向の混合や深層への水の供給が変われば、酸素が深い場所へ届く速度も変化する。
ただし、深海の酸素変化については海洋循環の自然変動も大きい。観測された変化のどこまでが人為的な温暖化によるものなのかは、地域や深度によって不確実性が残っている。深層の酸素減少には、大規模な海洋循環の変化や生物による酸素消費の変化など、複数の要因が関係すると考えられている。
酸素極小域の「境界」が動く
酸素極小域は、海の中に固定された壁として存在しているわけではない。上端と下端があり、水平方向にも広がりを持つ巨大な水塊だ。
もし酸素濃度が低下すれば、これまで生物が利用できていた周辺部分まで低酸素化し、酸素極小域の厚さや広がりが変化する可能性がある。
ここで重要なのが「境界」である。
ある魚にとって生存可能な酸素濃度と、別のクラゲや甲殻類にとっての限界は同じではない。そのため酸素濃度が少し変化しただけでも、種ごとに利用可能な水深範囲が変わる。
実際の中深層観察では、酸素極小域の内部で少なくなる動物がいる一方、低酸素域に入り込む魚類、頭足類、甲殻類、ゼラチン質動物も確認されている。低い代謝速度を持つものや、酸素を効率よく取り込めるもの、短時間だけ低酸素環境へ入るものなど、対応はさまざまだ。
したがって「酸素が減れば深海生物が一斉に浅い場所へ逃げる」という理解は正確ではない。
むしろ、**種によって異なる酸素耐性が、海の中の生物分布を組み替えていく**と考えたほうが実態に近い。
生息域が上下から挟まれる可能性
酸素減少による変化の一つとして考えられているのが、生息可能な水層の圧縮である。
たとえば、ある生物が低酸素の水には入れないとする。酸素極小域の上端が浅くなれば、その生物が利用できる水深の下限も浅くなる可能性がある。
しかし、浅い場所には別の問題がある。温度が高かったり、光が強かったり、捕食者が多かったりするかもしれない。
つまり生物にとっては、「酸素が十分な深さ」だけを選べばよいわけではない。温度、餌、捕食、生殖場所など、複数の条件が重なった範囲が実際の生息場所になる。
低酸素層が広がることで利用可能な水柱が狭くなる「生息域圧縮」は、すでにいくつかの海洋生物で研究されている。一方、中深層や深海に暮らす多くの種については、生理的な酸素限界そのものが分かっていない。映像で分布が確認できても、その分布を酸素だけが決めているとは限らない。現場観察から因果関係まで断定することはできないという注意も必要だ。
境界が海底に触れると何が起きるのか
低酸素の水塊が大陸斜面と接する場所では、水中だけでなく海底の生物相にも明瞭な変化が現れる。
コスタリカ沖の水深約400〜1800メートルで海底堆積物中の小型底生動物を調べた研究では、低酸素域と、より深く酸素の多い場所とで群集構成が異なっていた。低酸素の地点では特定の線虫類などが非常に多くなる一方、分類群の多様性は酸素の多い地点より低かった。
ここから分かるのは、低酸素化がただ「生物を減らす」だけではないということだ。
ある生物には厳しい環境でも、その条件に耐えられる生物にとっては競争相手や捕食者の少ない場所になる可能性がある。その結果、総個体数が必ず減るとは限らず、**生物群集の構成そのものが入れ替わる**ことがある。
もし酸素極小域と海底が接する範囲が変われば、このような群集の境界も斜面に沿って移動する可能性がある。ただし、どの程度の速度で、どこまで移動するのかは地域ごとの海流、地形、有機物供給などにも左右される。
微生物にとっては化学世界の境界でもある
酸素の境界は、大型動物だけに影響するわけではない。
微生物にとって酸素濃度の変化は、利用できる代謝経路が変わる境界でもある。酸素が乏しくなると、酸素呼吸だけではなく、窒素や硫黄の化合物を利用する微生物活動の重要性が高まる。
東部熱帯北太平洋の酸素極小域で行われた調査では、溶存酸素の勾配に沿って細菌群集の構成や多様性が変化し、低酸素環境に特徴的な微生物群が分布することが確認された。
これは、酸素極小域の拡大が単なる生物の分布問題ではなく、海洋の窒素循環や硫黄循環などにも影響しうることを意味する。
深海の「境界」が動くということは、生物地理の境界だけでなく、海水中で進行する化学反応の境界まで動く可能性があるということなのである。
深海全体が無酸素になるわけではない
酸素減少という言葉から、未来の深海が一様に窒息していく光景を想像するかもしれない。しかし現在の科学から、そのような単純な未来を描くことはできない。
全球規模では酸素量の減少が観測されている一方、その変化には大きな地域差がある。酸素極小域が強まる海域もあれば、長期変化を自然変動と明確に切り分けることが難しい海域もある。さらに深海は、海水が入れ替わるまで非常に長い時間を要する場所があり、表層の温暖化に対する反応も一様ではない。
未来予測にも不確実性が残る。海洋循環がどのように変化するのか、表層からどれだけ有機物が沈むのか、微生物による酸素消費がどう変化するのかといった要素が複雑に絡むためだ。
したがって確実に言えるのは、「深海生物がすべて同じ方向へ追いやられる」ということではない。
より現実的なのは、これまで比較的安定していた**低酸素域と酸素豊富な水域の境界が変化し、その境界に沿って生物群集や物質循環も組み替わる可能性がある**という見方である。
見えない境界を追い続ける
深海の酸素変化を理解するには、一度潜水船で観察するだけでは足りない。
同じ海域で長期間にわたって酸素濃度を測り、水温や塩分、海流、有機物の量と組み合わせる必要がある。さらに、採水や採泥だけでなく、音響観測や深海カメラ、ROVなどを使って、実際にどの生物がどの水深にいるのかを記録することも重要になる。
深海で起きている変化の多くは、人間の目には見えない。
海水は同じ青黒い闇に見えても、その中では「ここから先は酸素が少ない」という境界が存在する。そして、その境界を認識しているのは、そこを泳ぎ、漂い、海底に暮らす生物たちだ。
海の酸素減少が変えようとしているのは、単なる数値としての酸素濃度ではない。
それは、深海生物がどこまで降りられるのか、どこに留まれるのか、誰と出会い、誰から逃れられるのかを決める、**深海の見えない地図そのもの**なのである。