「酸性化」は、海が酸性になるという意味ではない
暗い深海で、殻や骨格を持つ生物が静かに溶けていく――海洋酸性化は、ときにそんなイメージで語られる。しかし、実際の現象はもっと複雑だ。深海生物への影響を考えるなら、まず「海洋酸性化」という言葉そのものを正確に理解する必要がある。
海洋酸性化とは、大気中の二酸化炭素(CO₂)が海水に溶け込み、海水の炭酸系の化学平衡が変化して、pHが低下していく現象を指す。海水のpHがただちに7未満の「酸性」になるという意味ではない。「以前より酸性側へ変化する」という意味での酸性化である。
そして重要なのは、変化するのがpHだけではないことだ。CO₂が増えると、海水中で炭酸水素イオンなどの割合が変化し、炭酸イオンが利用しにくくなる。炭酸カルシウムを殻や骨格の材料とする生物にとっては、この炭酸イオンの変化が大きな意味を持つ。
海洋酸性化は海面付近だけの現象でもない。人間活動によって増えたCO₂由来の炭素は海洋循環によって内部へ運ばれ、観測データを基礎にした研究からも、産業化以降の酸性化が海洋内部へ広がっていることが示されている。ただし、その進み方は海域や水深によって大きく異なる。
深海では「炭酸カルシウムを保てるか」が重要になる
深海で海洋酸性化を考えるとき、pHとともに注目されるのが「飽和度」である。
サンゴなどが骨格に利用するアラゴナイトや、さまざまな生物が利用するカルサイトは、どちらも炭酸カルシウムの結晶である。海水中にこれらの結晶を維持しやすいだけの成分が存在しているかを表す指標が飽和度だ。
飽和度が1を上回る水では結晶が比較的維持されやすく、1を下回る「未飽和」の水では、露出した炭酸カルシウムは化学的に溶解しやすくなる。
ここで深海特有の事情が加わる。低温と高い圧力のもとでは炭酸カルシウムが溶けやすくなるため、海にはある深さを境にアラゴナイトが未飽和となる領域が存在する。その境界が「アラゴナイト飽和深度(飽和ホライズン)」である。
海洋酸性化によって炭酸イオンが減れば、この境界が浅い方向へ移動する可能性がある。太平洋については、長期的な炭酸系データからアラゴナイトやカルサイトの飽和深度が浅くなってきたことを示す研究がある。変化量は地域によって異なるため、「世界中の深海で同じ速度で境界が上昇している」と考えるべきではない。
つまり深海の海洋酸性化では、「pHが何ポイント下がるか」だけを見ても十分ではない。どの水深で、どの炭酸カルシウム鉱物が、どの程度の飽和状態にあるのかまで考える必要がある。
冷水サンゴは「酸性化したら生きられない」のか
深海生物への影響を考える代表例が冷水サンゴである。
熱帯のサンゴ礁とは違い、冷水サンゴの多くは太陽光に依存する褐虫藻との共生を必要とせず、暗い深海にも生息する。種類によっては炭酸カルシウムの骨格を積み重ね、立体的な構造をつくる。その複雑な構造が、ほかの動物に隠れ場所や生活場所を提供する。
ここで注意したいのは、酸性化に対する反応が単純ではないことだ。
冷水サンゴ *Desmophyllum pertusum*(旧学名 *Lophelia pertusa*)を使った長期間のCO₂曝露実験では、短期間の反応だけを見た場合とは異なる結果が示され、一定の生理的な順応能力があることが報告されている。したがって、「pHが低下すれば冷水サンゴは直ちに石灰化できなくなる」とまではいえない。
一方で、生きているサンゴ個体が耐えられることと、サンゴ礁という立体的な生息環境全体が維持されることは別の問題である。
冷水サンゴ礁には、生きた組織で覆われた部分だけでなく、過去につくられた裸出した骨格が大量に含まれる。研究では、アラゴナイトが未飽和の条件でこうした露出骨格の溶解や空隙の増加が進めば、骨格構造そのものが弱くなり、サンゴ礁の複雑な立体構造が崩れやすくなる可能性が示されている。
つまり、「サンゴが生存できるか」だけを測っても、生態系への影響を完全には評価できないのである。
殻を持つ生物も、すべて同じ反応をするわけではない
炭酸カルシウムを利用する生物なら、どの種類でも同じように酸性化に弱い――という考え方にも注意が必要だ。
海底堆積物に暮らす有孔虫を用いた長期間の培養実験では、CO₂濃度を高めても、個体群の密度や成長、繁殖などが単純に大きく悪化しなかった例が報告されている。その理由の一つとして、堆積物の間にある間隙水の化学状態が、上を流れる海水とは異なっていたことが考えられている。一方で、空になった殻には溶解の影響も確認された。
これは重要な結果である。
深海生物が実際に経験している環境は、研究者が船上で測った「その水深の海水」の値だけでは表せない場合がある。堆積物の中、岩の隙間、生物の体表付近などでは、局所的な化学環境が周囲の海水と異なりうるからだ。
さらに、有孔虫でも種類によって殻の組成や生理が異なる。サンゴ、貝類、棘皮動物などをすべて一括して「石灰化生物」と呼んでも、それだけで感受性を予測することはできない。
実験結果をそのまま未来の深海に当てはめられない
海洋酸性化の研究では、飼育水槽のCO₂濃度を上げて、生物の成長、代謝、石灰化、生存率などを比較する実験が行われる。
こうした実験は重要だが、未来予測として読むときには限界もある。
実際の深海では酸性化だけが単独で起こるわけではない。水温、溶存酸素、餌の供給量、海流なども変化しうる。ある生物が低いpHだけなら耐えられても、低酸素や水温変化が重なると結果が変わる可能性がある。逆に、十分な餌を得られることで化学環境の変化に対応するためのエネルギーを確保できる場合も考えられる。
しかも、多くの深海生物は採集や長期飼育そのものが難しい。海底で受けていた高圧を維持したまま回収し、何年にもわたって将来環境を再現する研究は容易ではない。
数週間から数か月の実験で異常が見られなかったからといって、何十年も影響がないとはいえない。反対に、急激にCO₂濃度を変化させた短期実験で強い反応が見られたからといって、自然界で同じ程度の影響が生じるとも限らない。
観察された事実と、将来への推定を分けて読む必要がある。
深海の酸性化には「時間差」がある
もう一つ忘れてはいけないのが時間である。
大気と直接接している海面付近では、大気中CO₂の増加が比較的早く海水の炭酸系に反映される。一方、深海へ人為起源の炭素が到達するには海洋循環が関わる。そのため、深海の酸性化には地域ごとに異なる時間差が生じる。
これは「深海なら安全」という意味ではない。
いったん人為起源の炭素を含む水塊が深海へ運ばれれば、その水は長い時間をかけて循環する。近年の全球的な再構築研究でも、海洋内部への酸性化の進行はすでに確認されており、表層だけを見て深海の未来を判断することはできない。
深海環境の変化は、海面から静かに沈んでくる一枚の「酸性化の層」として進むわけではない。水塊の形成場所、循環経路、生物活動、炭酸カルシウムの溶解などが絡み合い、三次元的に進んでいく。
まだ分からないことは多い
現在かなり確かにいえるのは、人為起源CO₂の吸収によって海水の炭酸系が変化し、その影響が海洋内部にも及んでいること、そして炭酸カルシウムの飽和状態が変われば一部の深海生態系に影響する可能性があることだ。
一方、「どの深海生物が、どの海域で、いつ大きな影響を受けるのか」については、不確かな部分が大きい。
深海にはまだ生態すら十分に分かっていない生物が多く、酸性化に対する生理的な耐性が調べられていない種も膨大にある。個体が生き残れるかだけでなく、繁殖、幼生の発生、餌生物、捕食者、微生物、海底の化学反応まで含めれば、将来の生態系を正確に予測することはさらに難しくなる。
だからこそ、「海洋酸性化で深海生物が絶滅する」と一括して語るのも、「深海生物は厳しい環境に慣れているから大丈夫だ」と考えるのも適切ではない。
深海の海洋酸性化について分かってきたのは、単純な「pH低下」の物語ではないということだ。海水の化学、圧力と水温、海洋循環、生物の生理、海底の微小環境、そして何十年からさらに長い時間尺度が重なっている。
暗い海底で起きる変化は、私たちの目にはほとんど見えない。それでも、海水そのものの化学的な条件は少しずつ変わりうる。その変化の先で深海生態系がどこまで適応し、どこに限界が現れるのかは、いまも研究が続く大きな問いなのである。