深海生物図鑑

マリアナ海溝はどんな場所なのか

海の底をどこまでも降りていった先に、さらに大地が落ち込んでいる場所がある。西太平洋に延びるマリアナ海溝は、その代表であり、地球の海で知られている最深部を含む。

ただし、「マリアナ海溝=地球で最も深い一点」ではない。マリアナ海溝は長く続く海底地形で、その中に**チャレンジャー海淵(Challenger Deep)**と呼ばれる特に深い区域がある。ここでは水深がおよそ10.9キロメートルに達する。6,000メートルより深い海域は一般に「超深海帯(hadal zone)」と呼ばれ、マリアナ海溝の深部はその極端な例である。

マリアナ海溝は、なぜこれほど深いのか

マリアナ海溝は、単に海底が偶然くぼんだ場所ではない。その成因はプレート運動と結びついている。

この地域では太平洋プレートが西側のプレートの下へ沈み込んでいる。海洋プレートが曲げられながら地球内部へ沈み込む境界には、細長く深い海溝が形成される。マリアナ海溝は、こうした沈み込み帯にできた地形である。周辺の火山活動や地震も、同じプレート運動と深く関係している。

したがって、マリアナ海溝を見ることは、生物だけでなく地球そのものの活動を見ることでもある。海底の岩石や堆積物を調べれば、海洋プレートが沈み込む過程や、物質が地球内部へ運ばれる仕組みを知る手掛かりになる。

最深部では何が生物を待っているのか

チャレンジャー海淵の底では、海面とはまったく異なる物理環境が成立している。

第一の特徴は圧力である。海水中では深くなるほど水圧が増し、約11キロメートルの深さでは海面付近の大気圧のおよそ1,000倍に達する。人間が防護なしで耐えられる環境ではなく、探査装置にも極めて高い耐圧性能が必要になる。

第二の特徴は暗闇だ。太陽光は深海へ進むにつれて急速に弱まり、1,000メートルより深い無光層には太陽光がほぼ届かない。6,000メートルを超える超深海帯では、光合成に頼った生態系をその場で成立させることはできない。

さらに水温も低い。高圧、低温、暗闇という条件が同時に存在するため、地上の生物から見れば極端な環境である。しかし、そこで暮らす生物にとっては、それが通常の生活環境である。「過酷だから生物がいない」と考えるのは正しくない。

11キロメートルの底にも生命はいる

マリアナ海溝の研究で明らかになった重要な事実の一つは、非常に深い場所にも生命活動が存在することである。

海溝ではヨコエビ類をはじめとする甲殻類、ナマコ類、多毛類などが観察され、堆積物や海水からは多様な微生物も検出されている。チャレンジャー海淵の底の堆積物を対象とした研究では、細菌や古細菌からなる複雑な微生物群集が確認されている。

魚類も超深海へ進出している。代表例がマリアナスネイルフィッシュとして知られるクサウオ科の *Pseudoliparis swirei* で、マリアナ海溝の6,000メートルを大きく超える深度で生息することが知られている。その体には、浅い海の近縁種とは異なる形態や生理的特徴が見られ、高圧環境への適応を研究する重要な対象になっている。

ただし、「マリアナ海溝の最深部にも魚が普通に泳いでいる」と考えるのは適切ではない。魚類が確認される深さには限界があり、チャレンジャー海淵の約11キロメートルの海底では、魚よりも無脊椎動物や微生物が重要な構成要素となる。どの生物群がどの深度まで分布できるのかは、超深海研究の大きなテーマの一つである。

暗闇の底へ、食べ物はどこから来るのか

太陽光が届かない以上、海溝の底で植物プランクトンが光合成して食物を作ることはできない。それでも深海の生物が生きていけるのは、海面付近の世界と完全に切り離されているわけではないからだ。

表層で生産された有機物の一部は、死骸や排出物、微細な粒子となって沈んでいく。いわゆるマリンスノーである。さらに大きな生物の死骸などが海底まで到達すれば、一時的に大量の栄養を供給することもある。

海溝には、斜面から運ばれた堆積物や有機物が深部へ集まりやすいという考え方もある。実際、超深海の堆積物では活発な微生物による有機物分解が観測されており、「最も深い場所ほど単純に食物が少ない」とは限らない。海底地形が物質を集めることで、局所的には高い微生物活動が成立する可能性が示されている。

一方、その効果がマリアナ海溝のどこでも同じ程度に働くわけではない。斜面、海溝軸、季節、海流、地震や斜面崩壊などによって物質輸送は変化すると考えられ、長期間にわたる実態には未解明な部分が多い。

「世界最深」の数字が一つに決まらない理由

チャレンジャー海淵の深さを紹介するとき、資料によって10,900メートル台の数字が少しずつ異なることがある。これは、必ずしもどれかが間違っているという意味ではない。

海底の深さは、船から音波を送り反射時間を測定するマルチビーム音響測深や、潜水艇で得た圧力データなどから求められる。しかし音速は水温・塩分・圧力によって変化するうえ、重力、海面の変動、測定機器の誤差なども補正しなければならない。

2021年に発表された潜水艇の観測データを用いた研究では、チャレンジャー海淵の最深部について**10,935メートル、誤差約6メートル**という推定値が示された。一方、マルチビーム測深による別の調査でも10,900メートルを超える深度が得られている。数メートルから十数メートルの差まで完全に確定させることは、約11キロメートルという深さでは容易ではない。

そのため、「マリアナ海溝の深さは正確に○○メートル」と小数点以下まで固定された数字のように扱うより、**現在の測量では約10.9キロメートルと見積もられている**と理解する方が実態に近い。

どうやって11キロメートル下を調べるのか

マリアナ海溝の研究では、一つの探査方法だけですべてを調べることはできない。

海上からは音響測深によって海底地形を測り、無人探査機や有人潜水艇では映像を撮影したり、岩石や堆積物を採取したりする。自由落下して海底に着地する「ランダー」には、カメラ、餌付きの罠、水質センサーなどを搭載できる。

採取した海水や泥からDNAを解析すれば、カメラには映らない微生物の存在も調べられる。近年のメタゲノム解析では、チャレンジャー海淵の海水や堆積物に、深度や場所によって異なる微生物群集が存在することも明らかになってきた。

ただし、観測できる範囲は極めて限られている。探査機が一度の潜航で見ることができる海底は、広大な海溝全体から見ればごく一部にすぎない。餌付きカメラなら、餌に引き寄せられる生物が観察されやすいという偏りも生じる。

「映像に映らなかったから存在しない」とは言えないのである。

最も遠い海にも人間の影響は届いている

マリアナ海溝は都市や工業地帯から遠く離れている。しかし、人間活動の影響から完全に隔離されているわけではない。

マリアナ海溝などから採取されたヨコエビ類では、かつて大量に使用されたPCBなどの残留性有機汚染物質が検出されている。また、複数の海溝のヨコエビを調べた研究では、マリアナ海溝を含む超深海の個体から微細な合成繊維やプラスチック粒子が確認された。

さらに、マリアナ海溝の生物に含まれるメチル水銀の研究から、海面に近い有光層での過程を経た水銀が深海の食物網まで運ばれていることも示されている。

これは「海溝が汚染物質で満たされている」という意味ではない。重要なのは、地球で最も深い場所でさえ表層の海や人間社会と物質循環によって結ばれている、という点である。

まだ分からないことの方が多い

マリアナ海溝では生命の存在そのものは確認されている。しかし、そこに暮らす生物の全体像が分かったわけではない。

どれほど多くの未記載種が存在するのか。海溝ごとの生物集団はどの程度隔離されているのか。高圧への適応は進化の過程でどのように生まれたのか。斜面崩壊や地震によって運ばれる有機物が生態系にどれほど影響するのか。微生物による炭素や窒素などの循環が、長期的にどの程度重要なのか。こうした問題には、現在も確定した答えがない。超深海帯そのものが、海洋の中でも特に観測の少ない領域だからである。

マリアナ海溝の魅力は、単に「世界で最も深い」という記録にあるのではない。太陽光のない約11キロメートル下にも生命が存在し、海面から沈んだ物質が届き、海水が動き、微生物が物質を分解している。

地球の表面から最も遠く感じられる海底でさえ、地球全体の活動から切り離された世界ではない。

私たちがすでに知っているのは、その深さと環境の一部である。その場所で生命がどのように広がり、どのように世代をつなぎ、長い時間の中で変化してきたのかについては、まだ広大な未知が残されている。