海面の下には、山脈があり、谷があり、火山があり、地球上で最も深い海溝もある。けれども、私たちは海底を直接見渡すことができない。深海の地図は、暗闇の中をカメラで少しずつ撮影してつなぎ合わせたもの――と思いたくなるが、実際の海底地形図の多くはそうして作られているわけではない。
海底地形を描く主役は「音」だ。船や探査機から音波を送り、その反射が戻ってくるまでの時間を測る。人間の目には見えない海底を、反響から立体的に読み取っていくのである。
しかし、現在の海底地図は地球の海底を完全に描き切ったものではない。詳しく測られた場所と、まだ粗い推定しかない場所が混在している。深海地図とは、完成した世界地図というより、観測のたびに解像度を増していく巨大な下書きに近い。
海の深さは「音の往復時間」から測る
海底地形を測る基本的な考え方は単純である。
船から海底へ向けて音波を発し、海底で反射した音が船へ戻るまでの時間を測る。海水中を音が進む速度が分かれば、
**深さ ≒ 音速 × 往復時間 ÷ 2**
という関係から海底までの距離を求められる。
この方法は音響測深と呼ばれる。
光ではなく音が使われるのは、海水中では光が遠くまで届きにくい一方、音は比較的長距離を伝わるからだ。深海底を船上から調べるには、音響は非常に有力な手段となる。
ただし、式だけを見るほど測定は単純ではない。
海中の音速は一定ではなく、水温、塩分、圧力などによって変化する。そのため高精度な測量では、海水中の音速構造を把握し、その影響を補正する必要がある。船そのものも波によって上下し、傾き、進行方向も変化するため、船体の動きや位置も同時に測定しなければならない。
海底地形図は、一度音を鳴らせば自動的に正しい形が現れるものではないのである。
一本の深さから「帯状の地形」へ
初期の音響測深では、主として船の真下の深さを測る方式が使われた。これをシングルビーム測深と呼ぶ。
船が進むと、その航路に沿って海底の断面が得られる。しかし、測れるのは基本的に一本の線の下だけである。航路と航路の間に何があるのかは直接分からない。
現在の詳細な海底測量では、マルチビーム音響測深機が重要な役割を担っている。
マルチビームでは、船底から多数の音波を扇状に送り、船の左右に広がる海底を同時に測定する。船が前進すると帯状の範囲が次々と測られ、それらを組み合わせることで海底の立体的な形が描かれていく。
海山の斜面、海底谷、断層崖、火山地形など、単純な「水深」の数字だけでは分からない構造も見えてくる。
とはいえ、測量できる範囲と細かさには限界がある。広大な海を高解像度で調べるには、船を実際にその海域へ送り、何度も航行させなければならない。海底が深いほど一度に広い範囲を測れる場合がある一方、細かな地形を識別する能力には制約が生じる。
「広く測ること」と「細かく測ること」は、必ずしも同じではない。
船が測っていない場所にも地図があるのはなぜか
世界全体を眺める海底地形図を見ると、ほとんどすべての海底に山や谷が描かれている。
では、すべての場所を測量船が走ったのだろうか。
そうではない。
船による高精度な音響測量が十分に行われていない海域では、人工衛星による観測から海底地形を推定する方法も利用される。
人工衛星が海底を直接透視しているわけではない。利用するのは、海面のごくわずかな形の違いである。
たとえば大きな海山がある場所では、その海山を含む周辺の質量による重力の影響が海面にも現れる。人工衛星による高度測定などから海面形状や重力場の変化を調べることで、その下にどのような大規模地形がありそうかを推定できる。
この方法は、広大な海洋を把握するうえで非常に重要である。
しかし、ここで得られる海底地形と、船が音響で直接測った海底地形は同じ精度ではない。
衛星観測から比較的よく分かるのは、大きな海山や海嶺などの広域的な構造である。小さな谷や岩塊、細かな断崖まで正確に見えているとは限らない。
つまり世界規模の海底地図には、**直接測定された地形と、間接的に推定された地形が共存している**。
この違いは、深海地図を見るうえで重要である。
深海探査機はさらに細かな地図を作る
特定の海底を詳しく調べる場合、測量船よりさらに海底へ近づく方法が使われる。
AUV(自律型無人潜水機)などに音響装置を搭載し、海底から比較的近い高度を航行させれば、船上からの測量より細かな地形を捉えられる場合がある。
海底近くから測ることには大きな利点がある。
船から数千メートル下の海底を測る場合と、海底から数十〜数百メートル程度の位置を探査機が移動しながら測る場合では、対象との距離が大きく異なる。近距離から適切な装置で測定すれば、小規模な起伏を詳しく調べやすくなる。
熱水噴出域、海底火山、断層、沈没船など、狭い領域を精密に調査するときには、こうした近接探査が力を発揮する。
さらにROVなどによる映像や写真を組み合わせれば、「地形として存在する」という情報だけでなく、その場所に岩石や堆積物、生物群集がどのように分布しているのかを調べることもできる。
海底地形図と実際の映像は、互いに補完する関係にある。
地図が変わると、生物の見え方も変わる
海底地形図は地質学だけの道具ではない。
深海生物の研究でも重要である。
海底には一様な環境が広がっているわけではない。海山の頂上、急斜面、平坦な深海平原、海溝、海底谷などでは、水深だけでなく流れ、堆積物、餌となる有機物の供給なども異なりうる。
そのため、ある生物が発見されたとき、
「深さ4000メートルにいた」
という情報だけでは、その生息環境を十分に表現できない。
海山の斜面だったのか、谷底だったのか、平坦な泥底だったのか。その地形情報を重ね合わせることで、生物の分布をより詳しく考えられる。
また、海底谷が有機物の輸送経路になったり、海山が周囲とは異なる流れを生み出したりすることもある。こうした環境と生物分布の関係を調べるためにも、地形の把握は欠かせない。
ただし、地図上で地形と生物の分布が一致したからといって、それだけで原因が証明されたことにはならない。水温、流れ、底質、酸素量、餌、生物間関係など、複数の要因を検討する必要がある。
地図に描かれた線は、必ずしも崖ではない
海底地形図を見るときには、表現方法にも注意が必要だ。
地形図では、水深の違いを色分けしたり、等深線で示したり、陰影をつけて立体的に見せたりする。こうした処理によって、小さな起伏も分かりやすくなる。
一方で、縦方向を強調して表示すれば、実際には緩やかな斜面が巨大な崖のように見えることもある。
さらに、測量データが存在しない場所を周辺データから補間して描く場合もある。
したがって地図に形が描かれていることと、その場所が同じ細かさで直接観測されていることは別問題である。
研究では、単に完成した図を見るだけでなく、どの方法で測定されたのか、データ点の間隔はどの程度か、どの部分が実測でどの部分が補間や推定なのかを確認することが重要になる。
「地図がある」と「詳しく分かっている」は違う
現代には全球を覆う海底地形データがあり、パソコン上でも地球規模の海底を見ることができる。
それでも、海底のすべてが詳細に測量されているわけではない。
これは矛盾ではない。
地球全体のおおまかな起伏を描く地図と、数メートルから数十メートル規模の地形まで詳しく調べた地図は、同じ「海底地図」でも役割が異なるからだ。
陸上でも、大陸全体を示す地図と、一軒一軒の建物まで載った住宅地図が別物であるのと似ている。
深海では、その解像度の差がさらに大きな意味を持つ。
粗い地図では一つの滑らかな斜面にしか見えなかった場所を詳細に測量すると、小さな谷や崖、丘がいくつも現れることがある。逆に、推定されていた地形が詳しい測量によって修正されることもある。
未知とは、必ずしも「何も分かっていない」という意味ではない。
大まかな形は分かっているが細部が分からない場所。水深は測られているが地質が分からない場所。地形は分かっているが、そこにどのような生物が暮らしているのか分からない場所。
深海には、さまざまな段階の未知が重なっている。
海底地図は、探査の出発点である
深海の地図は、未知を消してしまうものではない。
むしろ地図が詳しくなるほど、次に調べるべき場所が増えていく。
奇妙な丘は何なのか。谷はどのように形成されたのか。海山の反対側にも同じ生物群集があるのか。断層の近くではどのような地質活動が起きているのか。
地形が見えることで、新しい問いが生まれる。
海面の上から送った音、人工衛星が捉えた重力の手がかり、海底近くを進む探査機の測定。異なる観測を重ね合わせながら、人類は少しずつ海底の形を描いてきた。
けれど、その地図には今も解像度の粗い場所があり、直接観測されていない細部が残っている。
深海地図は完成図ではない。
それは、暗い海の底へ向かうための案内図であり、同時に「まだ見えていない場所」を示す地図でもある。