深海では、エネルギーを使わないことも生存戦略になる
太陽光がほとんど、あるいはまったく届かない深海では、植物プランクトンによる光合成は期待できない。多くの場所で、生態系を支える有機物は海面近くでつくられ、死骸や糞、微細な粒子などからなる「マリンスノー」として沈んでくる。ところが、その途中では微生物や動物による分解・摂食が続くため、深くなるほど利用できる有機物の量や質は変化する。深海底に届く食物の量も、場所や季節によって大きく異なる。
このような環境では、獲物を探して泳ぎ回るだけでもエネルギーを消費する。しかも次の食事がいつ得られるか分からない。
そこで深海生物を考えるときに重要になるのが「低代謝」である。
代謝とは、生物が生きるために行う化学反応の総体だ。呼吸、筋肉の活動、体内の物質合成、細胞の維持などにはエネルギーが必要であり、その消費速度が低ければ、同じ量の食物から得たエネルギーをより長く使える。
実際、深海に暮らす魚類、甲殻類、頭足類の中には、浅い海の近縁種より低い代謝率を示すものが知られている。ただし、「深海生物はすべて低代謝」「食べ物が少ないから代謝が下がった」と単純化することはできない。深度と代謝の関係は、生息場所や分類群によってかなり異なるからだ。
低い水温そのものが省エネにつながる
深海の大部分は低温である。
一般に、変温動物では体温が周囲の水温に左右される。温度が低くなれば多くの生化学反応は遅くなり、結果としてエネルギー消費も小さくなる傾向がある。
そのため、深海生物の低代謝の一部は、特別な「省エネ能力」を持っているからというより、単純に冷たい環境に暮らしていることで説明できる。
この点は特に重要だ。深海動物と暖かい浅海の動物をそのまま比べれば、深海動物の代謝が低く見える。しかし同じ温度条件に補正して比較すると、差が小さくなるグループもある。
たとえば深海底に暮らす十脚甲殻類では、深度とともに代謝率が低下する傾向のかなりの部分を、水温の低下によって説明できるとする研究がある。つまり「深い場所だから自動的に極端な低代謝になる」のではない。
それでも、温度だけでは説明できないほど低い代謝を示す深海動物もいる。
そこから、深海特有の別の要因が見えてくる。
暗闇では「高速で追いかける能力」の価値が変わる
中層を泳ぐ魚やイカなどでは、深くなるにつれて代謝能力が大きく低下する例が知られている。
その理由を説明する有力な考えの一つが、「視覚的相互作用」に注目する仮説である。
明るい海では、捕食者はかなり離れた場所から獲物を発見できる。獲物にとっても捕食者を早く発見して逃げる能力が重要になる。その結果、速く泳ぐ筋肉や、それを支える高い代謝能力を維持することには大きな意味がある。
しかし光が極端に少なくなると、視覚によって相手を発見できる距離は短くなる。
遠くから獲物を見つけて長距離を高速追跡する機会が減れば、常に大きな筋肉と高い運動能力を維持する利益も小さくなる可能性がある。深海の遊泳性動物でみられる低代謝は、単なる飢餓への反応ではなく、「高速運動に投資する必要性が低下した結果」と考えることもできる。比較研究では、こうした考えが深度に伴う代謝低下の説明として支持されている。
一方、海底を歩いたり待ち伏せしたりする底生動物では事情が違う。もともと遠距離の視覚追跡をそれほど必要としないため、遊泳性動物ほど明瞭な深度依存の低代謝が現れない場合がある。
「深海」という一語でまとめても、中層を漂うイカと海底のカニでは、エネルギー戦略が同じとは限らないのである。
動かない、ゆっくり動く、効率よく浮く
代謝を低く保つには、生命活動そのものだけでなく、移動に必要なエネルギーを抑えることも重要になる。
深海には、活発に泳ぎ続けるよりも、水中で静止したり、ゆっくり移動したり、獲物が近づくのを待ったりする動物がいる。また、体の水分量が多い動物や、浮力を利用して水中にとどまりやすい動物も存在する。
こうした体や行動は、必ずしも「食物不足への直接的な適応」だけで生まれたとは限らない。しかし、移動のために使うエネルギーを抑えられるなら、結果として深海生活には有利になりうる。
代表的な例の一つがコウモリダコである。深い中層に暮らすこの頭足類は、イカのような強力なジェット推進を常用するのではなく、ひれを使った比較的効率のよい遊泳を行う。測定された代謝率も頭足類の中で非常に低く、その運動様式との関連が指摘されている。
つまり省エネは、単に細胞の反応を遅くするだけではない。
「そもそも大量のエネルギーを必要とする体や行動を持たない」という方向でも実現できる。
「たくさん食べて蓄える」ことも省エネ戦略の一部になる
食事の機会が不規則な場所では、食べられるときに食べることにも意味がある。
深海では、小さな粒子が絶えず降る場所がある一方、大型動物の死骸のように、突然大量の食物が現れることもある。したがって、深海の食料環境を単純に「常に何もない」と表現するのは正確ではない。
重要なのは、供給が不均一で予測しにくい場合があることだ。
そのため深海動物には、大きな口や拡張しやすい胃を持ち、自分に対して大きな獲物を利用できる種類もいる。一度得たエネルギーを長期間利用できるなら、次の食事までの時間が長くても生き延びやすい。
ただし、大きな口や胃を持つ深海魚のすべてについて「食物不足によって進化した」と証明されているわけではない。捕食方法、獲物の種類、系統的な制約など複数の要因が関係している可能性がある。
省エネとは、「ひたすら食べない」ことではない。
入ってくるエネルギーが不規則なら、得られるときに確保し、出ていくエネルギーを小さくする。その収支全体が重要なのである。
低代謝だから成長も寿命もすべて遅い、とは限らない
代謝が低ければ、成長や活動も遅くなるように思える。
実際、低温で食物供給の限られる深海底では、個体や群集レベルの成長、生産、エネルギー利用が温度や有機物供給と結びついている。しかし、代謝率だけから成長速度や寿命を一律に予測することはできない。種によって繁殖方法も捕食圧も生活史も違うためである。
「深海生物は低代謝だから長寿である」という説明も、すべての種類に適用できる法則ではない。
深海には寿命や成長速度そのものが十分調べられていない生物が非常に多い。採集できても、年齢を正確に測る方法が確立していない場合もある。
代謝の低さから生活史を推測することはできても、それを直接観察された事実と混同するべきではない。
そもそも深海の代謝は測ることが難しい
深海生物の代謝研究には、大きな技術的問題がある。
代謝率は、一定時間にどれだけ酸素を消費したかなどを測定して推定されることが多い。しかし深海の動物を船上へ持ち上げれば、水圧、温度、光、酸素条件などが急激に変化する。
採集そのものによって動物が弱ったり、逆に強いストレス状態になったりすれば、測定値は自然状態の代謝率からずれてしまう。
特に深い場所では高い水圧が酵素や細胞膜などの働きに影響するため、常圧で測定した結果をそのまま生息深度での状態とみなせない可能性もある。深海魚の代謝酵素についても、圧力条件によって働き方が変化することが実験的に示されている。
生息場所と同じ温度・圧力を維持したまま測定したり、深海に装置を置いて生体の呼吸を測定したりする方法は、この問題を小さくできる。しかし対象にできる生物や観測時間にはまだ制約がある。
私たちが知っている「深海生物の低代謝」は、暗闇の中で暮らすすべての生物を直接測定して得た完全な地図ではない。
限られた種類と測定から、少しずつ輪郭を描いている段階なのである。
食物不足だけでは説明できない深海の省エネ
深海で利用できる食物が限られることは、生物のエネルギー収支を考えるうえで重要である。
しかし研究から見えてきたのは、「食べ物が少ないから代謝を落とした」という一本の因果関係ではない。
低温によって化学反応そのものが遅くなる。暗闇によって高速の追跡や逃走への投資価値が変化する。浮力や運動様式によって移動コストを抑える。さらに、食物が不規則に供給される環境では、支出を小さくすることが生存に有利になる可能性がある。
これらが生物ごとに異なる割合で重なっている。
そして熱水噴出域や冷湧水域のように、化学合成を基盤とした生態系が発達する場所もあるため、「深海=どこでも同じように食物が乏しい」というわけでもない。
深海の省エネ戦略のおもしろさは、単に生命活動を最低限まで落としていることではない。
光も食物も予測しにくい世界で、**何にエネルギーを使い、何には使わないのか**という配分そのものが変わっている点にある。
暗闇の生物たちは、エネルギーを大量につくり出せる環境を手に入れたわけではない。限られたエネルギーでも成立する生き方を、それぞれ異なる方法で築いてきたのである。