深海探査の映像に、見たことのない生物が横切る。半透明の体、細長い触手、暗闇の中で光を反射する目。映像を見ていると、すぐに「これは何という生物なのだろう」と知りたくなる。
しかし研究者が映像を見て種名を決める作業は、図鑑の写真と見比べて「似ているもの」を探すだけではない。体の形だけでなく、大きさ、泳ぎ方、付着の仕方、水深、海域、水温、海底の環境など、映像に付随する多くの情報を組み合わせて候補を絞っていく。
そして重要なのは、**映像から分かる範囲を超えて種名を断定しないこと**である。深海映像では、属や科まで分かっても、種までは決められないことが珍しくない。
最初に見るのは「顔」ではなく体の構造
人間は動物を見ると、目や口など目立つ部分に注意を向けやすい。しかし分類で重要なのは、必ずしも印象的な部分ではない。
魚なら、体形、ひれの位置や形、尾部の構造、目の位置、口の形などを見る。エビやカニの仲間では、脚やはさみ、触角、体節の形が手掛かりになる。クラゲ類なら傘の形や触手の配置、クシクラゲ類なら体の基本構造や櫛板の見え方などが候補を絞る材料になる。
サンゴや海綿のように海底に付着する生物では、枝分かれの仕方、群体全体の形、表面構造、海底への付き方なども観察対象になる。
つまり映像による同定は、「何となく似ている」という印象ではなく、**映像から確認できる形質を一つずつ拾う作業**である。
ただし、ここですぐに限界が現れる。分類上重要な特徴が非常に小さかったり、体内にあったりする生物では、どれほど高画質の映像でも確認できないことがある。実際、水中映像による生物調査では、映像だけでは種まで到達できない分類群が多く、外見で区別できる「モルフォタイプ(形態型)」として記録する方法も使われている。
大きさが分かると候補は大きく減る
映像だけを見ていると、生物の大きさは意外なほど判断しにくい。
小さな生物をカメラの近くから撮影すれば巨大に見えるし、大型生物でも遠くを泳いでいれば小さく見える。深海には比較対象になる岩や海藻が少ない場所もあり、人間の日常的な感覚はほとんど役に立たない。
そこでROVなどでは、一定間隔のレーザー光を海底や生物に当て、映像内の物差しとして利用することがある。レーザー間隔が既知なら、生物のおおよその大きさを推定できる。
大きさは分類の重要な補助情報になるだけでなく、生態を考える材料にもなる。ただし、生物とレーザーが異なる距離にあったり、カメラに対して斜めになっていたりすれば誤差が生じる。映像上の測定値は、常に正確な体長とは限らない。
「どこにいたか」も同定情報になる
深海生物を見分けるとき、映像そのものと同じくらい重要なのが、その映像が撮影された環境である。
たとえば、
- どの海域なのか
- 水深は何メートルか
- 水温はどの程度か
- 海底は泥、砂、岩のどれか
- 海山、海溝、熱水噴出域など特殊な場所か
- 水中を泳いでいたのか、海底に付着していたのか
といった情報である。
NOAA Ocean Explorationの深海生物識別資料でも、画像だけでなく、観察地点、緯度・経度、水深、さらに利用可能な場合には水温、塩分、酸素などの環境情報が関連付けられている。専門家による同定も、航海中の観察だけでなく、後から画像や採集標本を詳しく検討して更新される。
ある種がこれまで特定の水深帯でしか知られていないなら、水深は有力な手掛かりになる。
しかし、これはあくまで**候補を絞る情報**である。「これまで水深3000メートルから記録されていないから、その種ではない」と直ちに断定できるわけではない。深海は調査されていない場所が広く残り、既知の分布そのものが不完全な可能性があるためだ。
一枚の写真より動画が有利な理由
動画には、静止画にはない情報が含まれている。
たとえば、どのひれを使って泳ぐのか、触手をどのように広げるのか、海底を歩くのか、水中を漂うのかといった動きである。
体が柔らかい深海生物では、姿勢によって形が大きく変わることもある。一枚だけを切り出すと別の形に見えていても、数十秒間の映像を追えば基本的な体構造が理解できる場合がある。
さらに動画からは、捕食、濾過摂食、海底への付着、穴への潜入、群れ形成などの行動が読み取れることもある。
こうした情報は分類だけでなく生態研究にも利用できる。MBARIでは、ROVなどから得られた深海映像について、生物の観察情報と関連データを記録・検索できるVideo Annotation and Reference System(VARS)が構築されている。大量の映像を単なる「動画」として保存するのではなく、観察記録として整理することが深海研究では重要になる。
色は見えているままとは限らない
深海映像を見るとき、特に注意が必要なのが色である。
自然の深海では太陽光のうち赤い波長ほど浅いところで吸収されるため、深い場所では人間が地上で見るような色彩環境は存在しない。ところがROVは強力な照明を使うので、生物は人工光に照らされて撮影される。
そのため映像の色は、照明の種類、カメラの特性、ホワイトバランス、生物までの距離などによって変わる。
赤く見えるから特定の種、白く見えるから別の種、と単純には判断できない。色が分類上の手掛かりになる場合でも、体形や構造、分布など他の特徴と組み合わせる必要がある。
透明な生物ではさらに難しい。背景の色や照明の角度によって輪郭そのものが変わって見えることがある。
それでも「種」まで分からないことがある
映像同定で最も重要な区別は、**「何に見えるか」と「分類学的に何であると確認できたか」は別である**という点だ。
近縁種同士の違いが、顕微鏡でなければ見えない微細な構造にある場合がある。魚でも鰭条数や歯などの詳細が必要になることがあり、無脊椎動物では骨片や生殖器官など、映像から確認できない特徴が分類の決め手になる場合がある。
さらに、外見がほとんど同じでも遺伝的には異なる系統が存在することもある。
その場合、映像から「この属の仲間らしい」と推定することはできても、「この種である」と確認するには標本が必要になる。
研究では、映像で確認した生物を実際に採集し、顕微鏡による形態観察やDNA解析などを行うことがある。映像と標本を対応させられれば、次に同じ形の生物が映ったときの識別精度も高くなる。深海調査で採集標本が重要なのは、映像では見えない情報を得られるからである。映像調査と標本確認を組み合わせて識別資料を整備する研究も行われている。
「sp.」と書かれているのは失敗ではない
深海探査の記録では、学名の後に「sp.」が付いていたり、科や属だけで記録されていたりすることがある。
これは必ずしも研究者が生物を知らないという意味ではない。
映像から確認できる特徴を考えると、「この属までは確実だが種までは判断できない」という場合、その範囲で記録するほうが科学的には正確である。
外見の異なる個体群を仮のモルフォタイプとして区別し、後の研究で標本や遺伝情報と対応させる方法もある。
反対に、画質の悪い映像から無理に種名を決めてしまえば、分布記録や個体数調査まで誤ったものになる可能性がある。
**分からないものを分からないまま記録することも、深海研究の重要な技術なのである。**
AIは深海生物を自動で見分けられるのか
大量の深海映像を人間だけで確認するには膨大な時間が必要になる。そのため画像認識を利用して、生物の検出や分類を支援する研究も進んでいる。
MBARIのVARSでも、深海映像に写る生物の識別を支援する機械学習システムが利用されている。
AIは、何時間もの映像から生物が映った場面を探したり、既知のパターンに似た個体を候補として提示したりする作業では有力な道具になり得る。
一方で、AIが出した名前がそのまま分類学的な確定になるわけではない。
学習画像が少ない希少種、これまで知られていなかった生物、外見のよく似た近縁種などは特に難しい。未知の生物に対して既知種の中から最も近い答えを選んでしまえば、「未知」を「既知」と誤認する可能性もある。
深海生物の同定では、AIにも「分からない」という選択肢が必要になる。
映像から確実に言えること、推定できること
一つの深海映像から得られる情報には段階がある。
体の構造や実際に観察された行動は、映像に写っている事実として記録できる。水深や位置、時刻、センサー値が保存されていれば、それらも観測データになる。
そこから、
「この科の生物に見える」
「過去の記録と比較するとこの属の可能性が高い」
「この行動は捕食に関係しているかもしれない」
と進むにつれて、解釈や推定の要素が大きくなる。
そして、なぜその形を進化させたのか、なぜその行動をしたのかという問いになると、複数の仮説を検討しなければならない場合も多い。
深海映像のおもしろさは、名前を当てることだけにあるのではない。
一匹の生物が映った数十秒の映像に、形態、行動、水深、地形、周囲の生物といった複数の情報が重なっている。その断片を既存の標本や記録と結び付け、「ここまでは分かる」「ここから先はまだ分からない」と境界線を引いていく。
暗闇から現れた生物にすぐ名前が付かないことは、映像の価値が低いことを意味しない。
むしろ名前の分からない一個体が、将来の標本採集や再調査につながり、それまで知られていなかった分布、生態、さらには新しい分類群を知る手掛かりになる可能性がある。
深海映像を見るということは、完成した図鑑から答えを探すことではない。**まだ完成していない図鑑の一ページを、観察のたびに少しずつ書き足していく作業なのである。**