海底の暗闇から、黒い煙のようなものが噴き上がっている。周囲には奇妙な管状の動物や貝、甲殻類が集まり、ときには海底を覆うほどの密集群をつくる。
そこは熱水噴出孔と呼ばれる場所だ。深海では太陽光がほとんど届かないため、地上の森や浅い海のような光合成を生態系の出発点にはできない。それにもかかわらず、一部の熱水噴出孔には驚くほど多くの生物が集まっている。
この生態系を支えているのは、太陽の光ではなく、海底から供給される**化学物質のエネルギー**である。
深海にも「食物連鎖の出発点」が必要になる
多くの生態系では、エネルギーの入口に植物や植物プランクトンがいる。
植物は太陽光を利用して二酸化炭素などから有機物をつくる。これが光合成である。植物を動物が食べ、その動物をさらに別の動物が食べることで、生態系の中をエネルギーが移動していく。
しかし深海底では事情が違う。
水深が増すにつれて太陽光は弱まり、深海の大部分では光合成に使えるだけの光が届かない。もちろん、上層の海でつくられた有機物が「マリンスノー」などとして沈んでくるため、一般的な深海生態系も完全に地表から独立しているわけではない。
ところが熱水噴出孔の周囲では、もう一つのエネルギー経路が存在する。
その主役が、化学合成を行う微生物である。
海底から噴き出す熱水には何が含まれているのか
熱水噴出孔は、海水が海底の割れ目から地下へ入り込み、熱せられたあと再び海底へ噴き出す場所である。
海底下を循環する途中で、水は岩石と反応し、さまざまな物質を取り込む。噴出する熱水には硫化水素、水素、メタンなど、微生物がエネルギー源として利用できる化学物質が含まれる場合がある。
高温の熱水そのものは、多くの動物にとって快適な環境ではない。しかし熱水が周囲の冷たい海水と混ざる境界では、温度や化学物質の濃度が変化し、微生物や動物が生きられる場所が形成される。
黒煙のように見える「ブラックスモーカー」では、熱水中の成分が冷たい海水と反応して細かな鉱物粒子となる。それが煙のように見えているのであって、燃焼による煙ではない。
奇妙な景観そのものが、生態系に必要な化学反応が起こる場所でもある。
化学合成は「光の代わりに化学反応を使う」
熱水噴出孔の生態系を理解する鍵が、**化学合成独立栄養**である。
一部の細菌や古細菌は、硫化水素や水素などの無機物を酸化する反応からエネルギーを得ることができる。そして、そのエネルギーを利用して二酸化炭素から有機物をつくる。
大まかにいえば、
**太陽光 → 有機物**
という光合成のエネルギー経路に対して、
**化学反応 → 有機物**
という別の経路が存在するのである。
ただし、「化学合成」という一種類の反応だけが熱水噴出孔を支えているわけではない。実際には場所によって利用される化学物質や微生物群集が異なり、硫黄化合物、水素、メタンなどを利用するさまざまな代謝経路が存在する。
つまり熱水噴出孔は、一つの巨大な化学反応炉というより、異なる化学環境が隣り合うモザイクのような場所なのである。
巨大な動物の背後には微生物がいる
熱水噴出孔の映像では、大型の動物が目立つ。
しかし生態系の基礎を担っているのは、目に見えにくい微生物である。
化学合成微生物は海底の表面や熱水の流れる場所に生息するだけでなく、動物の体内や体表にも存在する。ここから熱水噴出孔を特徴づける、もう一つの重要な仕組みが生まれる。
**共生**である。
代表的な例として知られるのが、東太平洋の熱水噴出孔などに生息するハオリムシ類である。
成体の一部は、一般的な動物のような口や消化管を持たない。その代わり、体内の特殊な組織に化学合成細菌を大量に共生させている。
動物側は血液を通して硫化水素や酸素、二酸化炭素などを共生細菌へ運び、細菌が化学反応によって有機物をつくる。宿主はその生産物を利用して生きる。
見た目には一本の巨大な動物でも、その生命活動は微生物との共同体によって成立しているのである。
貝やエビも微生物と結びついている
微生物との関係はハオリムシ類だけに限られない。
熱水噴出孔には、化学合成微生物を体内に共生させる二枚貝や巻貝なども知られている。エビなどでは、体表や特殊な部位に付着した微生物を利用すると考えられている例もある。
ただし、熱水噴出孔に暮らすすべての動物が化学合成微生物と直接共生しているわけではない。
微生物を食べる動物もいれば、そうした動物を捕食する生物もいる。死骸や排出物を利用するものもいる。
その結果、
化学物質
↓
化学合成微生物
↓
微生物を利用する動物
↓
捕食者や腐肉食者
という食物網が形成される。
実際の生態系はさらに複雑であり、上層海洋から沈んでくる有機物も利用される。そのため、「熱水噴出孔の生態系は太陽から完全に独立している」と表現すると単純化しすぎになる。
それでも、海底内部の化学エネルギーから新しい有機物が生産されることは、この環境の大きな特徴である。
なぜ噴出孔のすぐ近くに生物が密集するのか
広大な深海底では、生物の密度が低い場所も多い。
その中で熱水噴出孔の周囲だけに生物が密集する光景は印象的である。
理由の一つは、エネルギー源が局所的に集中していることだ。
硫化水素などの物質が供給される場所では化学合成微生物が生産を行い、それを基礎とする生態系が成立できる。一方、噴出孔から遠ざかれば熱水由来の化学物質は薄まり、生態系の条件も変わっていく。
ただし、噴出口に近ければ近いほどよいわけではない。
高温の熱水や高濃度の化学物質は生物にとって危険になり得る。酸素を含む海水と、還元的な化学物質を含む熱水が適度に混ざる場所こそ、化学合成に適した環境になる場合がある。
熱水噴出孔の生物は、「灼熱の海水の中」に住んでいるというより、激しい温度差と化学勾配が存在する境界を利用しているのである。
硫化水素は毒なのに、なぜ利用できるのか
硫化水素は多くの生物にとって有害である。
それにもかかわらず、熱水噴出孔では硫化水素が生態系を支える重要な物質になる。
これは「毒がそのまま栄養になる」という単純な話ではない。
化学合成微生物は、硫化水素などの物質を特定の代謝反応に利用できる。さらに共生動物の側にも、有害物質を体内で運搬したり、その影響を抑えたりする生理的な仕組みが存在する場合がある。
つまり熱水噴出孔の生物は、一般的な生物にとって厳しい化学環境を無視しているのではない。
その環境に対応する仕組みを進化させることで、他の生物が利用しにくいエネルギー源へアクセスしているのである。
熱水噴出孔そのものには寿命がある
熱水噴出孔は永久に活動するわけではない。
海底の地質活動が変化すれば熱水の流れが弱くなり、やがて止まることもある。すると化学物質の供給も変化し、そこに成立していた生物群集は大きな影響を受ける。
一方で、別の場所では新しい噴出孔が生まれる。
ここで大きな謎が生じる。
深海の暗闇の中で、新しく生まれた熱水噴出孔へ生物はどうやってたどり着くのだろうか。
多くの熱水噴出孔生物には、水中を漂う幼生期があり、海流によって別の場所へ分散すると考えられている。しかし分散距離や海流、噴出孔どうしの位置関係は種によって異なる。海底山脈に沿って生息地がどのようにつながっているのかについても、現在なお研究が続いている。
熱水噴出孔の群集は、固定された「深海のオアシス」というより、誕生と消滅、移住を繰り返す動的な生態系なのである。
「太陽なしの世界」は生命観を変えた
熱水噴出孔の生態系が科学的に大きな意味を持つ理由は、生物の珍しさだけではない。
それまで大規模な生態系のエネルギー源として強く意識されていた太陽光とは別に、地球内部と海水の化学反応を出発点とする生態系が存在することが明確になったからである。
ただし、これをそのまま「生命は熱水噴出孔で誕生した証拠」とすることはできない。
生命の起源については、海底熱水環境を重要視する仮説がある一方、どの環境で最初の生命システムが成立したのかは未解明である。現代の熱水噴出孔生態系が存在することと、生命の起源の場所を特定することは別の問題である。
それでも、光がなくても化学反応から生命活動を支えるエネルギーを得られるという事実は、生命が存在できる環境についての考え方を大きく広げた。
暗闇の底で、地球そのものを食べる生態系
熱水噴出孔を遠くから眺めれば、海底の割れ目から黒い煙が立ち上り、その周囲だけに生命が群がっているように見える。
だが、その光景を支えている仕組みをたどると、中心にいるのは怪物のような巨大生物ではない。
岩石と海水の反応によって生まれる化学物質。それを利用する微生物。そして微生物と共生し、食べ、食べられる動物たちである。
太陽から切り離されたように見える深海の底でも、生命はエネルギーの流れをつかまえて生態系をつくる。
しかもその入口は、空から降り注ぐ光ではない。
地球内部と海水が出会う海底の裂け目なのである。