海の底へ降りていくと、やがて太陽光は完全に失われる。さらに何千メートルも沈み、水深6000メートルを超えるころ、海底は「超深海帯(hadal zone)」と呼ばれる領域へ入る。海溝の最深部はそのさらに奥にあり、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵では水深がおよそ11キロメートルに達する。
そこまで深くなると、巨大な怪物が待っているというより、生き物の顔ぶれそのものが変わってくる。魚は姿を消し、それより小さな無脊椎動物や微生物が深さの限界へ近づいていく。
しかも近年の探査は、最深部がただの「暗く冷たい泥の世界」ではないことも明らかにし始めている。
水深1万メートルでも、海は無生物ではない
超深海では、光合成に利用できる太陽光は届かない。それでも生命がなくなるわけではない。
チャレンジャー海淵の海底堆積物を調べた研究では、多様な細菌や古細菌からなる微生物群集が確認されている。つまり、地球上でもっとも深い海底付近まで微生物の世界は続いている。
動物もいる。
代表的なのが、端脚類と呼ばれる甲殻類だ。エビに少し似た姿をしているが、分類上は別のグループである。マリアナ海溝に生息する端脚類 *Hirondellea gigas* は、実際に水深10,897メートルから採集された例がある。
つまり「1万メートルより深い場所には微生物しかいない」というわけでもない。
ただし、ここで注意したいのは、「海溝の最深地点にどんな動物が何種類いるのか」が完全に分かっているわけではないことだ。海底のごく限られた地点に機器を降ろして確認できた生物と、その海溝全体に存在する生物は同じではない。
私たちは海溝の底をすべて見渡しているのではなく、巨大な暗闇の中に何度か小さな窓を開けているにすぎない。
魚は最深部まで行けないらしい
深海生物というと、まず魚を想像するかもしれない。
実際、超深海にも魚はいる。特に有名なのがクサウオ科の仲間で、マリアナ海溝など複数の海溝で確認されている。
しかし魚の分布には、かなり明瞭な下限があるように見える。
2023年には伊豆・小笠原海溝の水深8,336メートルでクサウオ類が撮影され、魚類の最深観察記録となった。
一方、チャレンジャー海淵の最深部は約11キロメートルである。両者の間にはまだ2キロメートル以上の差がある。
なぜ魚だけが途中でいなくなるのだろうか。
### 高圧に耐えるための化学物質にも限界がある
有力な説明の一つが、TMAO(トリメチルアミンN-オキシド)という物質に関係する仮説である。
深海魚では、水深が大きくなるにつれて体内のTMAO濃度が高くなる傾向が知られている。TMAOには、高い圧力によってタンパク質の構造や働きが乱されるのを抑える作用があると考えられている。
ところが魚がさらに深く進むには、より多くのTMAOが必要になる。研究では、その増加傾向を外挿すると、水深約8200メートル付近で魚の体液と海水の浸透圧の関係に生理的な問題が生じる可能性が示されている。
実際の最深観察記録が8,336メートルであることは、この考えとおおむね一致する。
ただし、「魚は絶対に8336メートルより深く生きられない」と証明されたわけではない。観察できていない魚が存在する可能性や、未知の適応を備えた種が見つかる可能性まで排除することはできない。
現時点では、**魚類にはおよそ8キロメートル台に深度限界があるらしい**、というのが研究から見えている姿である。
その先では、端脚類やナマコなどが主役になる
魚のいない深さまで降りても、動物の世界そのものが終わるわけではない。
端脚類のほか、多毛類、ナマコ類などの無脊椎動物が超深海から知られている。海溝によって種類や分布は異なり、特定の海溝に強く結びついた生物もいる。
こうした生物にとって、深海の高圧は一時的な異常事態ではない。
生まれてから死ぬまで、その圧力の中が「普通の環境」なのである。
海面から深海魚を突然沈めれば耐えられなくても、超深海の生物は長い進化の過程で、タンパク質、細胞膜、代謝などをその環境で機能させる方向へ変化してきたと考えられている。
したがって、彼らを「ものすごい圧力を我慢している生物」と考えるのは少し違う。
彼らにとって危険なのは、むしろ人間が研究のために急激に海面へ引き上げることかもしれない。超深海生物を生きた状態のまま採集し、地上でその生理を調べることが難しい理由の一つでもある。
食べ物はどこから来るのか
深さとともに大きな問題になるのが食料である。
太陽光がないため、海溝の底に植物や植物プランクトンが育つことはできない。多くの超深海生態系は、上の海から沈んでくる有機物に依存している。
プランクトンの死骸などの細かな有機物、沈降する粒子、さらに大きな動物の死骸まで、表層で作られた物質が長い時間をかけて深海へ落ちてくる。
海溝にはもう一つ特徴がある。斜面に挟まれた地形のため、斜面から流れ落ちた堆積物や有機物が深部へ集まりやすい場所がある。地震や海底地すべりなどによって物質が運び込まれることも考えられている。
餌を付けた観測装置を海底へ降ろすと端脚類などが集まってくることがあるのも、腐肉を利用する生物が超深海生態系で重要であることを示している。
しかし、「最深部の生命はすべて上から落ちてくる食べ物だけに頼っている」という理解も、現在では修正されつつある。
9000メートルを超える場所に見つかった「化学のオアシス」
2025年、超深海のイメージを大きく変える発見が報告された。
千島・カムチャツカ海溝と西部アリューシャン海溝を有人潜水艇で調査した研究チームが、水深5800〜9533メートルで、シボグリヌム科を含む管状の多毛類や二枚貝を中心とした大規模な生物群集を確認したのである。確認範囲は海溝に沿って約2500キロメートルに及んだ。
特に深い地点は9533メートルだった。
これらの生物群集を支えているのは、海面から降ってくる有機物だけではない。海底から供給されるメタンや硫化水素を利用する微生物の化学合成が重要なエネルギー源になっていると解釈されている。堆積物の化学分析や同位体分析も、この仕組みを支持している。
太陽から完全に隔絶された深さ9キロメートル以上の場所に、化学エネルギーを基盤とする生物の集まりが存在していたのである。
ただし、このような群集がすべての海溝に存在することは確認されていない。研究者たちは地質学的に似た海溝にも広がっている可能性を指摘しているが、現段階では仮説である。
「最深部に何がいるか」を調べること自体が難しい
超深海研究には、単純な問題がある。
遠すぎるのである。
水深1万メートルでは海面から海底まで機器を往復させるだけでも大がかりな作業になる。装置は極端な水圧に耐えなければならず、一度の潜航で調査できる海底面積も限られる。
さらに、調査方法によって見える生物が変わる。
カメラなら映像に入った比較的大きな生物を見ることができる。餌付きのランダーなら腐肉に近づく動物を観察しやすいが、餌に興味を示さない生物は見落としやすい。採泥器なら泥の中の小型生物を回収できる。DNA解析なら肉眼では分からない微生物群集まで調べられるが、DNAが検出されたことと、その地点で活動中の生物を直接観察したことは同じではない。
だから「探査映像に何も映らなかった」ことは、「そこに生物がいなかった」という証明にはならない。
海の最深部は、生命の終点ではない
現在までの観察を並べると、海溝には深さによって少しずつ違う世界が現れる。
6000〜8000メートル台ではクサウオ類を含む魚が暮らし、その周囲には端脚類、ナマコ類、多毛類などがいる。魚は8キロメートル台を越えると確認されなくなり、さらに深部では無脊椎動物と微生物が中心になる。そして少なくとも一部の海溝では、水深9000メートルを超えても化学合成を基盤とする豊かな生物群集が存在することが分かってきた。
そして約11キロメートルのチャレンジャー海淵でも、端脚類や海底堆積物中の微生物が確認されている。
それでも、私たちが知っているのは断片にすぎない。
海溝ごとに生物相は同じなのか。1万メートルを超える場所に、まだ知られていない大型生物はいるのか。化学合成生態系はどこまで広がっているのか。高圧環境への適応にはどんな限界があるのか。
海底へ到達できる技術が生まれたことで、「生命はいるのか」という問いにはかなり答えられるようになった。
しかし、その答えは新しい問いを生み出している。
地球でもっとも深い場所は、生命が消えていく境界ではない。むしろ、私たちがまだほとんど見たことのない生命圏が続いている場所なのである。