深海生物図鑑

海溝の微生物はどんな環境で生きるのか

海溝の底は、ほとんど光が届かず、水温は低く、上からは巨大な水圧がかかる。大型生物にとって厳しい場所であることは想像しやすいが、その泥や海水の中には、肉眼では見えない細菌や古細菌などの微生物が生きている。

しかも海溝は、単なる「食べ物のない海底」ではない。周囲から有機物が集まり、場所によって酸素や窒素化合物の濃度が変化し、微生物による物質循環が活発になることがある。海の最深部は、静まり返った生命の空白地帯というより、目に見えない代謝反応が進む特殊な生態系なのである。

海溝では何が微生物を追い詰めるのか

一般に水深約6000メートルより深い海域は「超深海帯」あるいは「ハダル帯」と呼ばれる。海溝の最深部では水深が1万メートルを超えるため、水圧は100メガパスカル前後に達する。

この高い静水圧は、微生物にとって単に「押しつぶされる力」ではない。細胞膜の性質、タンパク質の立体構造、酵素反応など、細胞内のさまざまな仕組みに影響する。

一方、温度は多くの海溝底で低く、太陽光による光合成も期待できない。したがって海溝に暮らす微生物は、高圧、低温、暗闇、利用できるエネルギー源の制約を同時に受けることになる。

ただし、「海溝はどこでも極端な貧栄養環境である」と考えるのは単純すぎる。

海溝には斜面があり、谷底がある。その地形によって、上の海から沈んできた粒子や、斜面から移動した堆積物が深い部分へ集まることがある。研究では、海溝底の堆積物で、隣接するより浅い深海平原より高い微生物活動が観測された例もある。海溝が有機物の「受け皿」として働く場合があるためだ。

つまり海溝は、「深いほど何もない場所」とは限らないのである。

微生物は海溝のどこにいるのか

海溝の微生物を考えるときには、大きく海水中と海底堆積物中を分けて考える必要がある。

海水には、水中を漂う微生物のほか、有機物の粒子に付着して生活する微生物がいる。表層から沈んでくる「マリンスノー」のような粒子は、炭素や窒素を深海へ運ぶ輸送手段にもなる。

海底では、さらに複雑な環境が生じる。

泥の表面には海水から供給される酸素が存在していても、堆積物の内部へ進むにつれて酸素が消費され、酸素の乏しい層が形成されることがある。そこでは酸素呼吸とは異なる代謝を行う微生物が重要になる。

マリアナ海溝チャレンジャー海淵の研究では、斜面と谷底の堆積物で微生物群集の構成や代謝能力に違いがあることが示されている。谷底と斜面では、有機物や酸素、硝酸、アンモニウムなどの分布が異なり、それぞれ異なる微生物の生息場所になっていると考えられる。

「海溝の微生物」という一つの生態系があるのではなく、同じ海溝の内部にも多数の微小環境が存在しているのである。

太陽光がなくてもエネルギーは得られる

深海の海底に届く有機物の多くは、もともと海の表層で光合成によって作られたものに由来する。

海溝の微生物の多くも、こうした有機物を分解してエネルギーや炭素源を得る従属栄養生物である。マリアナ海溝の堆積物を対象としたゲノム解析でも、多様な有機物を利用できると推定される微生物が確認されている。

しかし、それだけではない。

無機物の化学反応からエネルギーを得て二酸化炭素を固定する、化学合成に関係する微生物も存在する。窒素、硫黄、メタン、水素などを利用する代謝経路が深海生態系では重要になる場合がある。

このため海溝の食物網は、表層から沈んでくる有機物だけに完全に依存しているとは限らない。

近年には、超深海で化学合成生態系と考えられる生物群集の研究も進み、海溝の最深部でも地下から供給される化学物質が局所的な生態系を支える可能性が注目されている。ただし、こうした環境がすべての海溝に広く存在するわけではなく、その分布や規模についてはまだ十分には分かっていない。

微生物は窒素循環にも関わっている

目に見えない微生物の活動は、海底の物質循環そのものを変える。

代表的なのが窒素である。

微生物の中には、硝酸などを別の窒素化合物へ変換するものがいる。さらに、最終的に窒素ガスへ変える反応が起これば、生物が利用しやすい「固定窒素」が海洋環境から失われることになる。

マリアナ海溝の堆積物では、脱窒や嫌気性アンモニア酸化などに関係する遺伝子が調べられてきた。ただし、その重要度は海溝内の場所や堆積物の深さによって異なる可能性がある。

さらに高圧環境を再現した実験では、酸素が存在する条件でも高い静水圧が硝酸還元や脱窒に影響を与える可能性が示されている。つまり圧力は、生物が耐えなければならない障害であるだけでなく、微生物の代謝や海底の元素循環そのものを変える環境要因でもある。

ただし、こうした反応が世界中の海溝でどの程度起きているのかは、まだ確定していない。

高圧に耐える仕組みは一つではない

海溝から見つかる微生物すべてが、同じ方法で水圧に耐えているわけではない。

高圧を好む微生物は「好圧性微生物」と呼ばれることがあり、高圧下でも増殖できるものや、高圧環境で最もよく増殖するものが知られている。一方で、高圧にある程度耐えられるだけの微生物も存在する。

研究されている高圧適応の一つが細胞膜である。

圧力が高まると細胞膜の流動性が変化するため、一部の深海微生物では脂肪酸組成を調節することで膜の働きを保つ仕組みが知られている。また、タンパク質の安定性を保つ仕組みや、代謝経路の変更なども高圧適応に関係すると考えられている。

ただし、「この特徴があれば海溝で生きられる」という単一の仕組みが判明しているわけではない。高圧への適応は、生物種や代謝様式によって異なる複数の仕組みの組み合わせと考える方が適切である。

DNAを読むだけでは「何をしているか」は分からない

海溝微生物研究で大きな役割を果たしているのが、DNAやRNAを解析する技術である。

海底泥からDNAを取り出し、16S rRNA遺伝子などを調べれば、そこにどのような細菌や古細菌が存在しているかを推定できる。

さらにメタゲノム解析では、環境試料中の大量のDNAをまとめて読み取り、微生物が持つ代謝能力を推定する。培養できない微生物についても調べられるため、深海研究では特に重要な方法である。

しかし、ここには注意点がある。

DNAの中にある遺伝子は、「その反応を行える可能性」を示すものであり、採取された瞬間にその反応が実際に起きていたことを必ず意味するわけではない。

そこでRNAを調べるメタトランスクリプトーム解析や、化学成分の測定、現場での酸素消費量測定、高圧下での培養実験などを組み合わせ、実際の活動に近づこうとする研究が行われている。

「遺伝子が見つかった」「代謝が推定された」「現場で反応が確認された」は、科学的には異なる強さの証拠なのである。

海面へ持ち帰った瞬間に環境が変わる

海溝微生物研究には、根本的な難しさがある。

水深1万メートルの試料を船上へ引き上げれば、それまで100メガパスカル近い圧力を受けていた微生物が、短時間でほぼ大気圧にさらされる。

その減圧によって、細胞の状態や代謝が変化する可能性がある。

したがって、回収した試料を研究室で調べただけでは、「海底で本当に起きていた状態」を完全には再現できない。海溝研究では、圧力を維持した採取装置、高圧培養装置、海底で試料を固定する技術などが重要になる。

実際、超深海の堆積物研究では、試料回収時の圧力変化や温度変化が測定結果に影響しうることが指摘されている。

深海を研究する難しさとは、単に「そこへ行けない」ことだけではない。「深海の環境を壊さずに地上へ持ってくる」こと自体が難しいのである。

どこまで分かり、どこからが未知なのか

現在の研究から、海溝には多様な細菌や古細菌が存在し、有機物の分解、炭素固定、窒素循環などに関わっていることは確かになってきた。

また、海溝底は均一な環境ではない。斜面、谷底、堆積物表面、酸素の少ない深部などによって、微生物群集と代謝環境が変化することも観測されている。マリアナ海溝では、既知のデータベースと一致しにくい遺伝子や微生物系統も多数検出されており、研究されていない多様性が残されている。

一方で、分からないことはさらに多い。

ある微生物が海溝固有なのか、それとも別の深海から運ばれてきたのか。海溝ごとに群集がどの程度異なるのか。高圧が代謝速度をどれほど変えるのか。地下から供給される物質と表層から沈む有機物のどちらがどの程度重要なのか。地震や海底地すべりによる堆積物の移動が、生態系をどのくらい変化させるのか。

海溝は広大で、実際に採取されている場所はその一部にすぎない。特定の海溝で得られた結果を、そのまま世界中の海溝へ当てはめることもできない。

巨大な生物を探すだけが、深海探査ではない。

一握りの海底泥の中にも、炭素を分解し、窒素を変換し、無機物からエネルギーを取り出す微生物がいる。海溝という極端な環境がどのように成り立っているのかを理解するには、こうした目に見えない生命の働きを知ることが欠かせない。

世界で最も深い場所の生態系を支えているものの一つは、目で見ることのできないほど小さな生命なのである。