深海生物図鑑

海溝にはどんな魚が見つかっているのか

海溝の底へカメラを沈めていくと、魚はどこまで現れるのだろうか。

水深6,000メートルを超える「超深海(hadal zone)」は、主に海溝に広がる世界だ。太陽光は届かず、水温は低く、水圧は海面の数百倍から1,000倍を超える領域に達する。ところが、そこは生命のない空間ではない。ヨコエビ類、ナマコ類、多毛類などさまざまな動物が暮らし、魚も海溝のかなり深いところまで進出している。一般に超深海は約6,000〜11,000メートルの領域として扱われる。[Woods Hole Oceanographic Institution+1](https://www.whoi.edu/ocean-learning-hub/ocean-topics/how-the-ocean-works/ocean-zones/hadal-zone/)

ただし、「海溝に魚がいる」という事実と、「海溝の最深部まで魚がいる」という話は別である。

現在までの観察では、魚が確認される深さには限界がありそうだ。世界最深部に近い水深1万メートル級では、魚よりも無脊椎動物が主役になる。海溝の魚を知ることは、「魚という脊椎動物がどこまで高水圧環境に耐えられるのか」という生命の境界を探ることでもある。

超深海で主役になるのはクサウオの仲間

海溝の魚として、とりわけ重要なのがクサウオ科の魚である。

クサウオ科には浅い海から深海まで非常に多様な種類が含まれるが、その一部は水深6,000メートルを超える超深海へ進出している。英語ではsnailfishと呼ばれ、超深海に生息するものは「hadal snailfish」と表現されることもある。

代表的なのが、マリアナ海溝から知られる**Pseudoliparis swirei**である。2017年に新種として記載され、記載に用いられた37個体は水深6,898〜7,966メートルから採集された。7,966メートルの個体は、深度データが確かめられた海底性脊椎動物の採集記録として極めて深いものだった。[Magnolia Press](https://www.mapress.com/zt/article/view/zootaxa.4358.1.7)

その姿は、巨大な牙を備えた典型的な「怪物型の深海魚」とはかなり違う。体は比較的小さく、淡い色をし、柔らかな印象を受ける。

これは奇妙さのための奇妙さではない。超深海という環境で生きてきた結果として理解する必要がある。

魚の最深記録は8,000メートルを超えた

さらに深い場所でも魚は撮影されている。

2023年に報告された研究では、伊豆・小笠原海溝の**水深8,336メートル**でクサウオ科の魚が映像に記録された。これは脊椎動物である魚類について、信頼できる映像による最深記録とされている。調査では水深6,824〜8,336メートルでクサウオ類が観察され、最も深い地点に現れたのは1個体の幼魚だった。[the UWA Profiles and Research Repository+1](https://research-repository.uwa.edu.au/en/publications/new-maximum-depth-record-for-bony-fish-teleostei-scorpaeniformes-/)

ただし、この魚の種名は断定できない。

映像の個体は既知種の**Pseudoliparis belyaevi**、あるいはそれに近い未記載種である可能性が指摘されたが、8,336メートルの個体そのものは採集されていない。そのため、「世界最深の魚の種は確実にPseudoliparis belyaeviである」と言い切ることはできない。

ここには超深海研究特有の難しさが表れている。

映像なら生きた状態を観察できる。しかし標本がなければ、体の細かな形態を調べたり、DNAを解析したりできない。一方、標本を採集するには、数千メートル下の海底まで装置を降ろし、魚を捕らえ、再び船上まで引き上げなければならない。

「魚が映った」と「その魚が何種なのか分かった」の間には、大きな隔たりがある。

海溝ならどこでも同じ魚がいるわけではない

超深海のクサウオを考えるとき、もう一つ重要なのが海溝同士の隔離である。

海溝は一本につながった巨大な深海ではない。日本海溝、千島・カムチャツカ海溝、マリアナ海溝、ケルマデック海溝などは、より浅い海底によって互いに隔てられている。

水深7,000メートル付近だけを好む魚にとって、数千メートルの深さしかない海底は、私たちが想像する以上に大きな生息環境の変化になりうる。

実際、超深海のクサウオ類については、単一の祖先が世界中の海溝へ広がっただけではなく、異なる系統がそれぞれ超深海環境へ進出したことを示す研究もある。つまり、海溝という極端な環境に対し、クサウオの仲間が複数回にわたって適応してきた可能性がある。[スプリンガーリンク](https://link.springer.com/article/10.1007/s12526-022-01294-0)

そのため、「超深海魚」という一種類の魚が世界中にいるわけではない。

海溝ごとに異なる系統や種が存在する可能性があり、まだ十分に調査されていない海溝では未知の魚が残されていると考える余地がある。

なぜクサウオはそこまで深く潜れるのか

最大の問題は水圧である。

水圧は単に体を外側から押しつぶす力として働くだけではない。生物にとって深刻なのは、高い圧力がタンパク質の立体構造や細胞膜など、生命を維持する分子レベルの仕組みに影響することである。

深海魚では、その影響を軽減する物質の一つとして**TMAO(トリメチルアミンN-オキシド)**が注目されている。

魚類では深く生息する種類ほど体内のTMAO濃度が高くなる傾向が知られており、TMAOには高圧下でタンパク質の機能を安定させる働きがあると考えられている。

ところが、TMAOを増やせば無制限に深く潜れるわけではない。

2014年に発表された研究では、深度に伴ってTMAO濃度が増加する関係を外挿すると、硬骨魚類が生息できる深さにはおよそ8,000メートル台に生理学的な限界が現れる可能性が示された。これは観測された魚類の深度分布とも大まかに一致する。[PNAS](https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.1322003111)

ただし、これは「8,300メートルを1メートルでも超えれば魚は生きられない」という絶対的な境界線ではない。

TMAOだけで魚の生存限界が決まるとも証明されていない。膜脂質、酵素、代謝、発生、生殖など、多くの要因が関係している可能性がある。8,336メートルという実際の観察記録も含め、現在のところは「魚類には8,000メートル台付近に何らかの生理的制約がありそうだ」という段階で考えるのが適切である。

海溝の底では魚よりヨコエビが目立つ

海溝調査の映像では、クサウオの周囲に多数のヨコエビ類が集まっていることがある。

超深海の魚にとって、こうした小型甲殻類は重要な餌になる。Pseudoliparis swireiでも甲殻類を食べることが確認されている。

海溝は一見すると食物がほとんどない砂漠のように思える。しかし、上層から沈んでくる有機物や死骸、斜面から運び込まれる物質などが海底へ供給される。海溝の地形によって有機物が集積する場合もあり、それを利用する小型動物が存在し、さらにそれを魚が捕食するという食物網が成立する。

ただし、調査映像を見る際には注意も必要だ。

超深海魚の調査には、餌を取り付けたカメラ付きの着底装置「ランダー」がよく使われる。そこで撮影される魚は、餌に接近する性質を持った種類に偏る可能性がある。

カメラにたくさん映る魚が、その海溝で最も多い魚とは限らないのである。

「1万メートルの魚」は見つかっていない

マリアナ海溝のチャレンジャー海淵は約1万1,000メートルに達する。それほど深い海溝が存在するなら、最深部にも未知の魚が泳いでいるのではないか――そう想像したくなる。

しかし、現在の信頼できる記録からはそう言えない。

魚類の確認記録は8,000メートル台までであり、それよりはるかに深い海底では、ヨコエビ、ナマコ、多毛類など別の動物群が生態系を構成している。

過去には非常に深い地点から魚が採集されたとする記録もあるが、古い調査では途中の水深で魚が網に入った可能性を排除できない例がある。深海の「最深記録」では、魚そのものだけでなく、**本当にその深度にいたことを証明できるか**が重要なのである。

深海魚の限界は、まだ確定していない

現在分かっていることを並べると、不思議な境界が見えてくる。

水深6,000メートルを超える海溝にも魚はいる。7,000メートル台ではクサウオ類が生活し、採集もされている。そして8,336メートルでは生きた魚が撮影された。

しかし、その先では魚の確実な記録が途絶える。

なぜそこで途絶えるのか。

タンパク質を守る化学物質の限界なのか。細胞膜の機能なのか。卵や仔魚の発生が高圧に耐えられないのか。あるいは複数の条件が重なっているのか。

まだ完全な答えはない。

そして8,336メートルより深い場所に魚が絶対に存在しないと証明されたわけでもない。調査された地点と時間は、巨大な海溝全体から見れば限られている。

それでも興味深いのは、地球の海が約1万1,000メートルまで続いているのに対し、魚の世界はその途中で終わる可能性が高いことである。

海溝をさらに降りていくと、魚の王国はやがて姿を消し、それより深い場所では別の生物たちの世界が始まる。

超深海の魚を探す研究は、新種を見つけるだけの探検ではない。**「魚であることは、どこまで可能なのか」**という生命そのものの限界を探る研究でもある。