深海生物図鑑

海溝の端脚類は高圧にどう適応するのか

1万メートルの海底を動き回る小さな甲殻類

水深6000メートルを超える海溝の底では、魚さえ見られなくなるほど深い場所にも、小型の甲殻類が生息している。その代表が**端脚類(たんきゃくるい)**だ。ヨコエビの仲間を含むグループで、マリアナ海溝では水深1万メートルを超える地点からも採集されている。たとえばマリアナ海溝のチャレンジャー海淵では、*Hirondellea gigas* や *Halice* 属の端脚類が1万メートル以深で確認されている。

海面近くに暮らす生物から見れば、そこは極端な環境である。暗闇、低温、限られた食物、そして何より巨大な水圧がある。

水深約11キロメートルでは圧力はおよそ110メガパスカルに達する。大気圧のおよそ1000倍という桁である。

それでも端脚類は、単に耐えているだけではない。餌を探し、移動し、繁殖して世代を重ねている。

では、なぜ体が「押しつぶされない」のだろうか。

高圧で本当に問題になるのは「体の形」だけではない

深海の水圧というと、潜水艇が圧壊するようなイメージから、生物の体も外側から押しつぶされるように思える。しかし、水分を多く含み、内部と外部の圧力差が小さい生物では、問題はそれほど単純ではない。

重要なのは**細胞や分子に対する圧力の作用**である。

高い静水圧はタンパク質の立体構造や分子同士の結合に影響し、正常な反応を妨げることがある。また、細胞膜を構成する脂質の状態にも影響する。つまり深海生物に必要なのは、「硬い殻で水圧を跳ね返す能力」というより、**高圧下でも細胞という化学システムを正常に動かす能力**なのである。

海溝の端脚類では、その対策が一つだけではないことが分かってきた。

タンパク質を守る「化学的な盾」

有力な仕組みの一つが、細胞内に存在する**オスモライト**と呼ばれる低分子化合物である。

2018年に発表された研究では、沿岸からマリアナ海溝・ケルマデック海溝の超深海まで、異なる深度に生息する端脚類の体内成分が比較された。その結果、深くなるにつれてTMAO(トリメチルアミンN-オキシド)、scyllo-イノシトールなど、タンパク質を安定化させる可能性のある物質が増える傾向が確認された。

TMAOは深海魚の研究でもよく知られる物質で、高圧によってタンパク質の構造や働きが乱れるのを抑える「圧力対抗物質(piezolyte)」として働くと考えられている。

ここで重要なのは、**「TMAOさえあれば1万メートルで生きられる」という意味ではない**ことである。

端脚類ではTMAOだけでなく、glycerophosphorylcholine、proline betaine、glycerophosphorylethanolamine、scyllo-イノシトールなど複数の候補物質が深度とともに変化する。種類によって組み合わせも異なる。

海溝への適応は、一種類の特殊物質ではなく、細胞内部の化学環境全体を調整することで成立している可能性が高い。

*Hirondellea gigas* ではTMAOの仕組みがさらに見えてきた

近年、マリアナ海溝に生息する *Hirondellea gigas* のゲノム解析が進み、TMAOをめぐる仕組みについて新しい手掛かりが得られている。

2025年に報告された研究では、*H. gigas* で深度が増すほどTMAO濃度が上昇する傾向が確認された。また、この端脚類自身がTMAからTMAOを作る反応に関係する遺伝子を持つ一方、体に共存する細菌 *Psychomonas* が逆方向の反応に関係する遺伝子群を持つことが報告された。研究者らは、宿主と微生物の代謝の組み合わせがTMAO濃度の調節に関与している可能性を示している。

これは非常に興味深い結果だが、**共生細菌だけが高圧適応を可能にしていると確定したわけではない**。TMAOの量がどのように制御され、個体が経験する圧力変化にどの程度すばやく対応できるのかなど、詳しい生理機構には未解明の部分が残る。

遺伝子そのものも変化している可能性

細胞内の環境を調整するだけでなく、タンパク質そのものが高圧環境に適した性質を持つ可能性もある。

2017年には、水深1万929メートルから採集された *H. gigas* のトランスクリプトームが解析された。浅海性の端脚類と比較した結果、エネルギー代謝や遺伝情報処理などに関係する複数の遺伝子で正の選択を示すシグナルが検出され、さらに一部の遺伝子ファミリーの拡大も報告された。研究者らは、特定のタンパク質のアミノ酸置換と遺伝子ファミリーの変化が海溝環境への適応に関与した可能性を指摘している。

ただし、ここでも注意が必要である。

マリアナ海溝は「高圧だけ」の環境ではない。低温、暗闇、餌不足などが同時に存在するため、ある遺伝子の変化を見つけても、それが水圧への適応だけによって進化したのかを切り分けるのは難しい。

ゲノムに特徴が見つかったことと、その遺伝子が実際に高圧耐性を生み出していることは同じではない。因果関係を確かめるには、さらに生化学的・生理学的な実験が必要になる。

アルミニウムで覆われた外骨格

*H. gigas* には、さらに珍しい特徴が報告されている。

電子顕微鏡などによる分析から、この端脚類の外骨格表面にはアルミニウムが存在し、内部ではなく表面を覆っていることが確認された。研究では、海底堆積物から取り込まれたアルミニウムが、最終的に水酸化アルミニウムのゲルとして外骨格表面を覆うという仕組みが提案されている。

実験では、約100メガパスカルの圧力を加えた際、このアルミニウムを含む層がある外骨格では、カルシウムの溶出が少なかった。研究者らは、この層が外骨格中の炭酸カルシウムを高圧環境で保護する役割を持つ可能性を示した。

ただし、「アルミニウムの鎧が1万メートルの水圧を物理的に受け止めている」と理解するのは正確ではない。

この研究が直接示したのは、外骨格成分の安定化に関する効果である。端脚類の細胞、神経、筋肉、酵素などが高圧下で働くためには、それとは別の生理的・分子的な適応も必要になる。

細胞膜についてはまだ分からないことが多い

高圧と低温はどちらも生体膜を硬くする方向に作用するため、深海生物では膜脂質の組成を変えて流動性を保つ「恒流動性適応」が重要だと考えられている。深海生物や好圧性微生物では、不飽和脂肪酸を増やすなどの仕組みが知られている。

そのため、海溝の端脚類でも膜脂質の調節が高圧適応の一部になっている可能性は十分に考えられる。

しかし、タンパク質を保護するオスモライトほど、海溝最深部の端脚類について詳細な実証がそろっているわけではない。**深海生物一般で知られている仕組みと、海溝端脚類で直接確認された仕組みは区別する必要がある。**

「海溝の端脚類」は一種類の生物ではない

海溝から見つかる端脚類には複数の科や属が存在する。2023年の整理でも、水深6000メートルを超える環境から多様な端脚類が記録されており、*Hirondellea* だけが海溝を代表する唯一のタイプではない。

マリアナ海溝では、*H. gigas* が7000~1万メートルを超える広い深度で採集される一方、*Halice* の一種は1万メートル以深の複数地点から確認されている。

つまり、「端脚類が高圧に適応する方法」もすべての種で同一とは限らない。

ある種ではオスモライトの組み合わせが重要かもしれず、別の種では酵素や膜脂質の性質が違うかもしれない。これらを比較できるようになれば、生命が超高圧環境へ進出する際に共通して必要な条件と、系統ごとに独自に進化した仕組みを分けて考えられるようになる。

最大の謎は、生きたまま調べることの難しさにある

海溝生物研究には根本的な難問がある。

1万メートルの海底から標本を回収すると、周囲の圧力は約100メガパスカルから地上の大気圧まで急激に変化する。そのため、船上に引き上げた個体の状態が、海底で生きていたときと完全に同じとは限らない。

餌を付けた罠は端脚類の採集に非常に有効だが、そこに集まりやすい腐肉食性・雑食性の種類が多く採れるという観測上の偏りも考慮する必要がある。実際、海溝性端脚類の分布研究ではベイト付きランダーが広く使われている。

高圧を維持したまま採集し、飼育し、細胞活動や遺伝子発現を観察できれば、高圧適応をさらに直接的に確かめられる。しかし、全海洋深度に相当する圧力を扱う装置と採集技術には大きな技術的制約がある。

だからこそ、海溝の端脚類について現在見えている姿はまだ途中段階だ。

確かなことは、彼らが単なる「頑丈な生物」ではないということである。タンパク質を守る物質、遺伝子や酵素の性質、外骨格の化学、共生微生物との関係など、複数の仕組みが組み合わさっている可能性が高い。

水深1万メートルの海底で小さな端脚類が活動しているという事実は、生命が圧力を力で跳ね返しているのではなく、**高圧の世界でも化学反応が成立するよう、自らの体の仕組みを変えてきた**ことを示している。