深海で突然、口だけが前へ飛び出す
ミツクリザメ(*Mitsukurina owstoni*)の顔を見ていると、まず長く平たい吻に目を奪われる。だが、このサメの本当の驚きは口を開いた瞬間に現れる。
普段は頭部の下側に収まっている上下のあごが、獲物に向かって一気に前方へ突き出されるのだ。静止した写真だけを見ると、長い口を持つサメのようにも見える。しかし実際には、頭そのものを大きく動かすのではなく、あごの骨格が頭蓋から離れるように前へ移動する。
この捕食動作は長いあいだ標本の構造などから推測されていたが、2008年と2011年に撮影された2個体、計5回の攻撃・捕食行動を解析した研究によって、動きの詳細が明らかになった。研究者たちは、この極端な捕食法を「スリングショット・フィーディング」と呼んでいる。[Nature](https://www.nature.com/articles/srep27786)
それは単に「あごを伸ばす」という動きではない。口を大きく開き、あごをいったん後方へ引き、その直後に上下のあごを獲物へ向けて射出する、一連の高速運動なのである。
あごはどのように飛び出すのか
人間のあごを想像すると、下あごが関節を中心に上下する仕組みを思い浮かべるだろう。サメのあごはそれとはかなり異なる。
サメ類では、歯を支える上下の顎軟骨が頭蓋骨と完全に一体化しているわけではない。そのため種類によって程度は違うものの、捕食時に上あごを前へ動かせるサメは珍しくない。
ミツクリザメは、その能力を極端なところまで発達させている。
観察された捕食動作では、まず下あごが大きく下方から後方へ動き、口が広がった。解析された1回の攻撃では、上下のあごの角度は最大約116度に達している。その状態から、今度は上下のあごが急激に前方へ移動した。[Nature](https://www.nature.com/articles/srep27786)
つまり、
「口を開く → あごを引く → 前へ射出する → 獲物を挟む」
という動きが、ごく短時間に連続している。
特に下あごは、単純に前へ平行移動するわけではない。後方へ下げられた位置から前上方へ振り上げられながら進む。そのため、獲物を下側からすくい上げるような軌跡を描く。
映像を一コマずつ追わなければ分からないほど複雑な動きである。
どれほど遠くまで伸びるのか
2016年に報告された映像解析では、あごの先端は通常位置から、上あごで全長の約8.6%、下あごで約9.4%に相当する距離を移動した。
しかも速い。
解析された攻撃では、上あごの最大速度は毎秒約1.6メートル、下あごは毎秒約3.14メートルに達した。研究では、比較された他のサメ類よりも突出距離が非常に大きく、ミツクリザメの捕食動作が極端に特殊化していることが示された。[Nature](https://www.nature.com/articles/srep27786)
重要なのは、この数字を「すべてのミツクリザメが必ずこの速度で噛みつく」という意味に受け取らないことである。
詳細な速度計測は限られた個体と映像に基づいている。自然の深海で多数の個体を追跡し、年齢や体サイズ、獲物の種類ごとに攻撃速度を比較したわけではない。
したがって、「ミツクリザメには極端に速く、遠くまであごを突出させる能力が確認されている」というのが、現在の証拠から言える範囲になる。
なぜそんなあごが必要なのか
ここから先には、観察された事実と、それを説明する研究上の解釈を分けて考える必要がある。
**確認されているのは、ミツクリザメがあごを高速で突出させ、実際に餌を捕らえられることだ。**
一方、
**なぜこの仕組みが進化したのかについては、進化的な解釈が含まれる。**
研究者たちは、深海生活との関係に注目している。
ミツクリザメは外洋表層を高速で泳ぎ続けるようなサメとは体つきが異なる。そこで、獲物を長距離追跡する能力を高める代わりに、接近した獲物へあごそのものを一気に伸ばす捕食法が有利になった可能性が考えられている。
2016年の研究でも、極端なあごの突出が、速く持続的に泳いで獲物を追う能力を補う可能性が示されている。また、この捕食法が餌の乏しい深海環境への適応として発達したという仮説も提示された。[Nature](https://www.nature.com/articles/srep27786)
ただし、「深海には餌が少ないから、ミツクリザメは飛び出すあごを進化させた」と一本の因果関係として断定することはできない。
進化は過去に起きた出来事であり、現在の形態からその過程を直接観察することはできないからだ。系統関係、解剖学、化石、現在の生態などを組み合わせて、もっとも整合的な説明を探っていくことになる。
長い吻とあごは一つの捕食システムなのか
ミツクリザメには、飛び出すあごとは別に、前方へ突き出した長い吻がある。
サメ類の頭部には微弱な電気刺激を感知するロレンチーニ器官があり、ミツクリザメの長い吻も獲物の探索に関係すると考えられてきた。暗い環境では、視覚だけに頼らず周囲の生物を探せることには利点があると考えられる。
ここから、
「吻で獲物を発見し、静かに近づき、射程に入った瞬間にあごを飛ばす」
という捕食場面を想像することはできる。
しかし、それが野生のミツクリザメの典型的な狩り方であると詳細まで確認されているわけではない。
深海生物の研究では、この違いが重要になる。
身体構造から「できそうなこと」は推定できても、実際に「いつ、どのように使っているのか」は映像や直接観察がなければ分からない。ミツクリザメについても、自然状態での捕食行動の観察例はまだ非常に限られている。
歯も「逃がさない」形をしている
飛び出すあごの先には、細長く尖った歯が並んでいる。
肉を大きく切り取る刃物のような歯というより、細い獲物をつかむのに適した形である。知られている胃内容物などからは、硬骨魚類をはじめとするさまざまな深海動物を食べることが示されている。
この歯と突出するあごを合わせて考えると、捕食の狙いが見えてくる。
高速で泳ぎ回りながら何度も攻撃するのではなく、届く距離まで近づいた獲物に対し、最後の瞬間だけ捕食装置を前へ伸ばしてつかむ。
これは深海での生活に整合的な戦略として考えることができる。
ただし、野生個体の狩りを大量に観察できているわけではない以上、「必ず待ち伏せしている」「すべての獲物を同じ方法で捕る」とまでは言えない。
飛び出したあと、もう一度口を開く
ミツクリザメの捕食には、さらに奇妙な動きがある。
あごを前へ出して閉じたあと、元の位置へ戻す途中で再び口を開き、もう一度閉じる動作が観察されたのである。
2016年の研究では、捕食過程を「準備」「拡張」「圧縮」「回復」といった段階に分け、さらに突出、把握、保持、再開口、再閉口などの動きを区別して解析している。[Nature](https://www.nature.com/articles/srep27786)
なぜ回収途中でもう一度口を開閉するのかについては、ミツクリザメの極端なあごの突出と関係している可能性があるものの、その機能まで完全に解明されたわけではない。
ここにも、映像で確認できる「動き」と、その意味についての「解釈」の境界がある。
深海では、体全体より「一部分」を速くする
ミツクリザメの捕食を眺めていると、深海生物の姿について一つの面白い見方ができる。
速い捕食者というと、流線形の体で獲物を猛烈に追いかける姿を想像しやすい。だが、捕食に必要なのは必ずしも体全体の高速化ではない。
獲物との最後の数十センチだけを埋めればよいなら、その瞬間に使う装置だけを高速化するという方法もある。
ミツクリザメでは、それが「あご」だった可能性がある。
長い吻の下に静かに収まっていた口が開き、下あごが大きく引かれ、次の瞬間には頭部の輪郭を越えて前へ飛び出す。
一見すると異様な形に見えるが、その動きを捕食という機能から見ると、姿の意味が変わってくる。
ミツクリザメの飛び出すあごは、深海の怪物を演出するための奇妙な飾りではない。
それは暗い海で獲物との距離を一瞬で縮める、非常に特殊化した捕食装置なのである。そして、その装置が自然の深海でどのように使われているのかについては、今なお観察できていない場面が数多く残されている。