深海の生物を「そのまま」持ち帰る難しさ
深海探査の映像には、ときに見たこともない生物が映り込む。透明な体を漂わせるクラゲの仲間、海底に張り付く奇妙な形の動物、暗闇を泳ぐ魚。研究者にとって、そうした生物を映像で観察することと、実際に標本として採集することには大きな違いがある。
標本があれば、体の細かな構造を調べたり、組織や遺伝情報を解析したりできる。新種かどうかを判断するうえでも、実物の標本は非常に重要である。
しかし深海では、見つけた生物を網ですくって船まで運べば終わり、というわけにはいかない。
深海生物は、高い水圧、低い水温、暗闇といった環境の中で暮らしている。採集とは、その生物を本来の環境から急激に引き離し、数百メートル、ときには数千メートル上の海面まで運ぶ作業でもある。
その過程で、標本そのものが変形したり壊れたりすることがある。
私たちが博物館や図鑑で見る深海生物の姿は、必ずしも生きているときの姿を完全に保存したものではない。
水圧の変化が標本を変えてしまう
海では、おおよそ10メートル深くなるごとに水圧が約1気圧ずつ増えていく。水深数千メートルでは、海面とは比較にならないほど高い圧力が生物にかかっている。
ただし、「深海生物は高圧に押しつぶされない特殊な殻を持っている」と単純に考えるのは正確ではない。
多くの深海生物では、体内の水分も周囲とほぼ同じ圧力を受けているため、海中にいるかぎり、巨大な圧力差が体表にかかっているわけではない。
問題になるのは、採集して海面へ引き上げるときである。
圧力が低下すると、体内に気体を含む構造を持つ生物では、その気体が膨張する可能性がある。魚類では、浮力調節に使われる鰾の状態などによって、急激な減圧の影響が現れることがある。
一方、すべての深海魚が大きな鰾を持っているわけではない。深海への適応の仕方は種類によって異なるため、「深海魚は引き上げると必ず膨らむ」と一般化することもできない。
さらに、圧力の変化は目に見える変形だけを引き起こすわけではない。
細胞膜やタンパク質など、生体分子の働きも圧力の影響を受ける。深海生物の生理を研究する場合、海面へ運ばれた時点ですでに本来の状態から変化している可能性を考慮しなければならない。
柔らかい生物ほど壊れやすい
深海には、ゼラチン質の体を持つ生物が多く見られる。
クラゲ、クシクラゲ、サルパの仲間をはじめ、非常に柔らかな組織を持つ動物は珍しくない。こうした生物の中には、体の大部分が水分でできており、わずかな力でも形が崩れてしまうものがいる。
大型の採集網を船から下ろして深海を曳く方法では、多くの生物を一度に採集できる可能性がある。しかし網の中では、生物同士がぶつかったり、網目に押し付けられたりする。
丈夫な甲殻類や魚類なら比較的原形を保つ場合がある一方、繊細な生物は破片しか残らないこともある。
そのため、映像では確認されているのに、完全な標本がほとんど得られていない生物が存在する。
これは「標本がないから、その生物が存在しない」という意味ではない。映像記録、遺伝情報、断片的な標本など、異なる証拠を組み合わせて研究が進められる場合もある。
ただし、新種として正式に記載する場合には、形態を確認できる標本が重要な役割を果たす。映像だけでは確認できない微細な特徴が、分類の決め手になることがあるからだ。
深海では、見つけても捕まえられない
深海生物の採集が難しいもう一つの理由は、単純に「生物まで手が届かない」ことである。
深海底を観察するROV(遠隔操作型無人潜水機)には、ロボットアームや採集容器を搭載できるものがある。海底の岩石や動物を狙って採取できるため、網による採集よりも対象を選びやすい。
しかし万能ではない。
泳ぐ生物はROVから逃げることがある。クラゲのような柔らかい生物を通常のマニピュレーターでつかめば、その力だけで傷つけてしまう可能性もある。
逆に、岩に強く付着している生物は簡単には剥がれない。
さらにROVには、潜航時間、搭載できる容器の数、機器の操作範囲などの制約がある。深海で珍しい生物を発見しても、その瞬間に適切な採集装置が用意されているとは限らない。
カメラの前を数秒だけ横切り、そのまま暗闇へ消えていく生物もいる。
「発見すること」と「標本を手に入れること」の間には、深海では大きな隔たりがある。
採集した瞬間から環境が変わる
無事に容器へ入れられたとしても、問題は終わらない。
深海は通常、低温である。海域や深度によって異なるものの、深い海では水温が数℃程度の場所も広い。
ところが標本を海面へ運ぶ途中では、周囲の水温や圧力が変化する。
温度に敏感な生物では、この変化によって生理状態が変わる可能性がある。
また、熱水噴出孔や冷湧水域などでは、水中の化学成分も周囲の海とは大きく異なる場合がある。硫化水素やメタンなどを利用する微生物との共生によって生きる動物を研究する場合、単に動物の体を採集するだけでは、生きていた環境全体を再現できない。
研究者が知りたいのが「どのような形をしているか」なのか、「どの遺伝子を持つか」なのか、「高圧環境でどのように代謝しているか」なのかによって、必要な採集方法も変わってくる。
標本採集は、生物を取る技術であると同時に、研究したい情報をできるだけ失わずに保存する技術でもある。
高圧のまま持ち帰る方法
こうした問題を減らすため、深海の圧力を保ったまま生物や海水を回収する装置も研究・利用されている。
考え方は単純である。
通常の採集では、標本が海面に近づくにつれて周囲の圧力が下がる。そこで、深海で生物を密閉容器に入れ、内部の高い圧力をできるだけ維持したまま船上へ回収する。
これにより、急激な減圧による影響を抑えられる可能性がある。
しかし高圧容器には強度が必要で、装置は複雑になる。内部を観察したり、生物に餌を与えたり、水質を維持したりするとなれば、さらに難しくなる。
また、「圧力を保てば深海環境を完全に再現できる」わけでもない。
水温、溶存酸素、化学成分、流れ、餌、生物同士の関係など、深海の環境には多くの要素がある。圧力はその一つにすぎない。
高圧回収技術によって調べられる範囲は広がっているが、生物が自然状態で示すすべての性質を船上で再現できるわけではない。
標本から何が分かるのか
採集された標本は、単に図鑑に載せるためのものではない。
まず重要なのが分類である。
外形だけでなく、歯、骨、触手、鱗、付属肢、内部器官などを詳しく調べることで、近縁種との違いを比較できる。保存方法によって条件は異なるが、組織やDNAなどを解析できる場合もある。
胃内容物が残っていれば、何を食べていたのかを推定する手掛かりになる。耳石や硬組織などから成長に関する情報が得られる魚類もいる。
安定同位体分析などを利用すれば、その生物が食物網のどの位置にいるのかを推定できることもある。
しかし、標本から分かることには限界がある。
たとえば胃の中からある動物が見つかったとしても、その餌だけを常に食べているとは限らない。一個体の標本から、種全体の行動を断定することもできない。
まして、保存液の中にある生物の姿だけから、生きているときの泳ぎ方や発光行動、繁殖行動まで正確に再現することは難しい。
標本は強力な証拠だが、それだけで生態のすべてが分かるわけではない。
「採れなかった生物」が残す謎
深海研究では、映像にだけ登場する生物もいる。
何度か観察されているにもかかわらず、標本が得られていない場合、その正体について研究者は慎重にならざるを得ない。
既知種なのか、新種なのか。成体なのか幼体なのか。別の生物が変形して見えているのか。
映像からある程度推定できても、標本による確認がなければ結論を出しにくい場合がある。
逆の問題もある。
昔に採集された標本は残っているが、生きている姿がほとんど観察されていない生物である。
保存された標本では、色が変わったり、柔らかい組織が縮んだりすることがある。そのため、長い間知られていた生物でも、深海カメラで生体が観察されて初めて、本来の姿や行動について新しい理解が得られることがある。
標本と映像は、どちらか一方が優れているという関係ではない。
互いに欠けた情報を補い合うものなのである。
深海から一匹を持ち帰るということ
地上から見ると、標本採集は研究の最初の段階に思えるかもしれない。
しかし深海では、その「一匹を手に入れる」という行為そのものが大きな技術的課題になる。
探査船を目的地まで運び、潜水機を海底へ下ろし、暗闇の中から対象を探し出す。生物を傷つけない方法で採集し、必要なら温度や圧力を維持しながら海面まで運ぶ。
それでも、生きていたときの状態を完全に保存できるとは限らない。
だからこそ深海生物の研究では、標本だけでなく、映像、環境測定、遺伝子解析、現場での観察など、複数の方法を組み合わせることが重要になる。
深海には、姿だけが知られている生物も、断片的な標本しかない生物も、そもそもまだ人間に発見されていない生物もいると考えられる。
深海探査機のカメラに未知の影が現れた瞬間、それは発見の終点ではない。
その生物を傷つけずに調べ、何者なのかを確かめ、どのような環境でどのように生きているのかを理解するまでには、さらに長い研究が続いている。