海面から遠く離れ、太陽光のほとんど届かない深海。その海底に「ここから先は守る場所」と境界線を引いても、魚や海水は自由に行き来する。そもそも人間がほとんど訪れない深海に、保護区をつくる意味はあるのだろうか。
海洋保護区は、単に珍しい生物を囲い込むための場所ではない。深海では、生物そのものだけでなく、海底の地形、堆積物、餌となる有機物の流れ、繁殖や幼生分散を支える環境まで含めて守る必要がある。しかも、深海は調査が難しく、保護すべきものの全貌が分からないまま管理を始めなければならない場合もある。
海洋保護区は「立入禁止区域」とは限らない
海洋保護区という言葉から、すべての漁業や船舶の活動が禁止された海域を想像するかもしれない。しかし実際には、保護の強さや規制内容はさまざまである。
ある区域では採取行為を厳しく制限し、別の区域では特定の漁法だけを禁止することがある。海底を傷つける活動を制限する一方、海面付近の航行は認められる場合もある。そのため、「海洋保護区に指定されている」という情報だけでは、実際に何が禁止され、何が認められているのかまでは分からない。
深海を考えるうえでは、この違いが特に重要になる。
深海生態系に影響する活動のなかには、海底に直接触れるものがある。たとえば海底付近を利用する漁法や、資源開発に伴う掘削・採取などである。一方で、海底には触れなくても、水中の生物を大量に捕獲すれば食物網を通じて影響が広がる可能性がある。
したがって、深海の保護では「どこを保護区にしたか」だけでなく、「その場所で何を規制しているか」が重要になる。
深海では、生物だけではなく「場所そのもの」が重要になる
浅い海と同じく、深海にも均一な砂漠が広がっているわけではない。
海山、海溝、大陸斜面、泥の海底、岩場、熱水噴出域、冷湧水域など、環境は場所によって大きく異なる。それぞれに異なる生物群集が成立することがあり、わずかな地形や化学環境の違いが生息場所を分ける場合もある。
特に、硬い基盤に付着して成長するサンゴや海綿の仲間などは、海底の構造そのものと強く結びついている。こうした生物がつくる立体的な構造は、別の生物の隠れ場所や生活場所になることもある。
このような環境では、生物だけを取り除かずに残せばよいとは限らない。
海底の構造が破壊された場合、そこに生息していた生物が再び戻れるかどうかは、成長速度、繁殖、幼生の供給、海流、地形など多くの条件に左右される。深海には長寿で成長の遅い生物も知られており、攪乱後の回復に長い時間が必要となる可能性がある。
ただし、深海生態系すべてが同じ速度で回復するわけではない。回復力は生物群や環境ごとに異なり、まだ十分に調査されていない場所も多い。
なぜ、人間がほとんど見ていない海底を先に守るのか
深海保護には、一見すると奇妙な問題がある。
何がいるか十分に分かっていないのに、何を守るか決めなければならないのである。
陸上なら、植物の分布や動物の生息数を調査し、重要な場所を特定してから保護区を設定することが比較的容易な場合もある。しかし深海調査には船舶、音響機器、無人探査機、採泥器などが必要になり、広大な海底を同じ密度で調査することは難しい。
そのため実際の保全では、確認された生物だけではなく、地形、水深、水温、海底の種類などを手掛かりとして、生態学的に重要である可能性の高い場所を選ぶ考え方も使われる。
これは「そこには必ず希少種がいる」という意味ではない。
観測できていない以上、生物相については推定にとどまる部分がある。しかし、調査が不十分であることを理由に、すべてを利用可能な場所として扱えば、未知の生態系が記録される前に変化する可能性もある。
深海保護では、未知であること自体が管理上の重要な条件になる。
保護区は、境界線の内側だけでは完結しない
海底に線を引いても、生態系はその線に従わない。
魚類や甲殻類の一部は移動する。さらに、多くの海洋生物では、成体が海底に定着していても、卵や幼生が海中を漂って別の場所へ運ばれることがある。
そのため、一つの保護区だけを孤立して考えるのではなく、複数の生息地がどのようにつながっているかを考える必要がある。
ある海山で生まれた幼生が、海流によって別の海山へ運ばれている可能性もある。逆に、見た目には近い二つの場所でも、水深や海流の違いによって生物の交流がほとんどない可能性もある。
この「生態学的なつながり」は、深海保護の難しい研究課題の一つである。
遺伝解析によって個体群のつながりを推定したり、海流モデルを使って幼生の移動を予測したりする研究は行われている。しかし、幼生がどれほど長く漂うのか、どの水深を移動するのかが分からない種も多く、実際の移動経路を完全に再現できるわけではない。
したがって、保護区同士をどの程度の間隔で配置すれば十分なのかについて、一律の答えがあるわけではない。
保護による効果を確かめることも難しい
保護区を設置した後には、「本当に生態系が守られたのか」を評価する必要がある。
しかし深海では、これも簡単ではない。
深海生物の個体数は自然に変動することがある。餌として沈んでくる有機物の量、海流、酸素濃度、水温なども一定ではない。そのため、ある年に生物が増えたからといって、それだけで保護区の効果だとは断定できない。
理想的には、保護区の内外を長期間比較し、規制前後の変化も追跡する必要がある。
映像観察では、大型生物や海底の構造を繰り返し確認できる。採取調査では、映像だけでは識別できない小型生物や微生物を調べられる。環境DNAなどの手法も、生物相を調べる手段として利用されている。
ただし、どの方法にも観測できる対象とできない対象がある。
一度の潜航映像に映らなかったからといって、その生物が存在しないとは限らない。反対に、一度見つかった生物が、その場所に安定して生息しているとも限らない。
深海保護の評価には、長期間の観測が重要になる。
海洋保護区だけで深海を守れるわけではない
保護区には明確な利点がある。特定の場所で人為的な圧力を減らせれば、生態系が本来持つ状態を維持しやすくなる可能性がある。また、人間活動の少ない区域を残すことで、利用されている区域との比較対象として科学的にも重要な場所になる。
一方で、境界線では止められない変化もある。
海水温、酸素濃度、海洋酸性化、有機物の供給量などは広い海域の変化と結びついている。海流によって運ばれる汚染物質や微小なプラスチックも、保護区の境界を越える。
つまり海洋保護区は、深海環境を守るための重要な手段ではあっても、万能な壁ではない。
局所的な人間活動を管理することと、より広い海洋環境の変化に対応することは、別々ではなく組み合わせて考える必要がある。
「何も起きていない場所」を残す意味
深海保護区には、生物多様性の保全とは少し違った役割もある。
それは、人為的な攪乱の少ない場所を残すことである。
将来、ある海底で生態系が変化したとき、比較できる場所がなければ、それが自然変動なのか、人間活動による変化なのかを判断することが難しくなる。
保護された海域が長期的に観測されていれば、一種の基準地点として利用できる可能性がある。
もちろん、保護区の内部も気候や海流の影響を受けるため、「完全な自然状態」を保存できるわけではない。それでも、直接的な攪乱を抑えた場所を残すことには、研究上大きな意味がある。
私たちは、まだ何を守っているのか完全には知らない
深海保護の最大の特徴は、対象の全貌が分からないまま保全を進めなければならないことである。
未記載の生物がどれほど存在するのか。離れた海山の個体群がどの程度交流しているのか。ある生態系が攪乱されたあと、数十年後、あるいはそれ以上の時間を経てどこまで回復するのか。
多くの問題には、まだ十分な答えがない。
だからこそ深海の海洋保護区は、「すでに価値が証明されたものだけを囲う場所」と考えるより、未知を含んだ生態系そのものを残す仕組みとして見る方が実態に近い。
暗い海底で静かに生きる生物の多くは、人間に発見されることとは無関係に存在してきた。
保護区が守ろうとしているものの中には、私たちが名前を知っている生物だけでなく、まだ観察されたことのない生物、まだ理解されていない生物同士の関係、そして将来の研究によって初めて意味が分かる環境まで含まれているのである。