深海の海底には、どれほどの生物がいるのか
深海の海底を映した映像を見ると、何もない泥の平原がどこまでも続いているように見えることがある。ところが、その泥を少量採取して詳しく調べると、線虫、甲殻類、多毛類、貝類など、肉眼では目立たないさまざまな動物が見つかる。岩場やサンゴ群集、熱水噴出域などでは、さらに異なる生物群集が形成される。
深海底は、一見した印象とは反対に、多様な生物が暮らす環境である。ただし「深海には全部で何種いるのか」「ある海域は別の海域より多様なのか」という問いに正確に答えるのは難しい。
理由は単純に深すぎるから、というだけではない。深海では調査できる面積が限られ、多くの生物が小さく、分類そのものが終わっていない。さらに、数十センチ離れただけで環境が変わる場合もあれば、広大な海底に低密度で生息する種類もいる。
深海の生物多様性を測ることは、巨大な暗闇から、ごく小さな標本を取り出して全体像を推定する作業なのである。
「生物多様性」は種数だけではない
生物多様性という言葉は、単純な「種類の多さ」と同じ意味で使われることがある。しかし研究上は、もう少し広い概念として扱われる。
ある地点から100種が見つかったとしても、100種がほぼ同じ個体数で存在する場合と、1種だけが圧倒的に多く残り99種がわずかしかいない場合では、群集の構造は大きく異なる。そのため種数だけでなく、それぞれの種の個体数や分布も重要になる。
さらに、遺伝的な多様性や、生物が果たす機能の違いまで含めて考えることもある。
海底を掘る動物、沈んできた有機物を食べる動物、微生物を利用する動物、他の動物を捕食する動物では、生態系における役割が異なる。外見のよく似た生物同士でも、遺伝的には別種だったということもある。
したがって「深海の多様性を測る」といっても、何を多様性と呼ぶかによって調査方法も答えも変わってくる。
海底のわずかな標本から広大な世界を推定する
深海底の調査では、有人潜水船や無人探査機による観察のほか、海底の堆積物を採取する装置などが使われる。採取した泥をふるい分け、その中から生物を取り出して分類する方法も重要である。
ここで大きな問題になるのが、調査面積の小ささだ。
深海底は地球表面の非常に大きな部分を占める一方、人間が直接採取できる海底はそのごく一部にすぎない。一度の採泥で得られる範囲は、調べたい海域全体と比べれば点に近い。
しかも、その一点が周囲を代表しているとは限らない。
海底には平坦な泥底だけでなく、岩、礫、海山、海溝、鯨骨などの大型遺骸、熱水噴出域、冷湧水域といった異なる環境が存在する。水深、底質、酸素濃度、有機物の供給量、海流なども場所によって違う。
数キロ離れればまったく異なる群集になる場合もある一方、よく似た環境が遠く離れた場所に存在することもある。
そのため、一地点で多くの種類が見つかったとしても、その結果をそのまま海域全体へ広げることはできない。
小さな生物ほど見えにくい
深海生物というと、大型の魚やイカ、ダイオウグソクムシのような目立つ動物を想像しやすい。しかし海底の生物多様性を考えるうえでは、もっと小さな生物が重要になる。
堆積物の表面や内部には、多毛類、小型甲殻類、線虫など多数の底生動物が暮らしている。さらに微生物まで含めれば、多様性の把握は一段と難しくなる。
大型動物なら映像からある程度識別できることがあるが、数ミリ以下の生物では採取しなければ存在すら確認できない場合が多い。
また、採取方法によって捕まえやすい生物と捕まえにくい生物が異なる。泥の中にいる動物を調べる装置では海底上を泳ぐ生物を十分に採れず、カメラ観察では堆積物内部の小動物をほとんど確認できない。
つまり、調査装置が変われば「見える生物」も変わる。
ある調査で記録されなかったからといって、その生物がそこに存在しないとは限らないのである。
見つけても「何種いるか」がすぐには分からない
標本を採取できれば問題が解決するわけでもない。
深海から得られた小型動物には、既知種なのか未記載種なのか判断するために専門的な分類研究が必要なものが多い。形態だけでは区別しにくい近縁種も存在する。
近年はDNA解析によって、外見ではほとんど区別できなかった集団が遺伝的に大きく異なることが分かる例もある。一方、遺伝的差異が見つかったからといって、それだけで必ず別種と決められるわけではない。
「種」をどのように区切るか自体が、生物学上の重要な問題だからである。
さらに、深海生物では標本数が少なく、成長段階や雌雄による形態差が十分に分かっていない場合もある。幼体と成体が別種として扱われていたものが、後の研究で同じ種だと分かる可能性もあれば、その逆もあり得る。
したがって、現在知られている深海生物の種数は、深海に実際に存在する種数そのものではない。
未発見種がどれほど存在するかについてはさまざまな推定が可能だが、正確な総数は分かっていない。
なぜ餌の少ない深海で多様性が生まれるのか
深海底の多くは、表層で作られた有機物が沈降してくることで支えられている。一般には海面から遠くなるほど利用できる有機物は減り、深海底は食物の乏しい環境になりやすい。
それにもかかわらず、多数の種が共存する場所があることは、深海生態学の興味深い問題である。
その理由については複数の仕組みが考えられている。
海底が完全に均一ではなく、微小な環境の違いが多数存在することは、その一つである。有機物のかけら、巣穴、石、局所的な流れなどが、小さな生物にとって異なる生息場所を作る可能性がある。
また、餌が少ないことで特定の種だけが圧倒的に増えにくく、多数の種が低密度で共存できるという考え方もある。
ただし、深海の高い多様性を単一の要因だけで説明できるわけではない。生産性、攪乱、海底地形、進化史、幼生の分散など、複数の要因が関係すると考えられている。
どの要因がどの程度重要なのかは、海域や生物群によって異なる可能性があり、現在も研究対象である。
海底は平らな一枚の世界ではない
深海の生物多様性を理解するとき、とくに重要なのが環境の不均一性である。
たとえば海山には、周囲の深海平原とは異なる流れや硬い基質が存在し、固着性の生物が暮らせる場所が生じる。海溝では非常に高い水圧のもとで、ほかの深度帯とは異なる生物群集が見られる。
熱水噴出域や冷湧水域では、さらに特殊な生態系が形成される。
こうした場所では、太陽光による光合成ではなく、硫化水素やメタンなどに関係する化学反応からエネルギーを得る微生物が生産者となり、それを利用する動物が密集する場合がある。
一方、熱水噴出域のような特殊環境だけが深海の多様性を生み出しているわけではない。目立った地形のない泥底にも、多数の小型底生動物が暮らしている。
「何もないように見える海底」と「生物学的に単純な海底」は同じではない。
新しいDNA調査で何が変わるのか
近年の海洋生物調査では、標本の形を観察する方法に加え、DNAを利用した解析が重要になっている。
海水や堆積物には、生物が残した細胞や排出物などに由来するDNAが含まれる。そのDNAを調べることで、その場所に存在する生物を推定する環境DNA解析も行われている。
また、多数のDNA配列をまとめて調べる方法を利用すれば、顕微鏡だけでは処理しきれないほど多くの微小生物を検出できる可能性がある。
ただし、DNAが検出されたことと、その生物がその地点で継続的に生活していることは同じではない。海流などによってDNAが移動する可能性もあり、データベースに比較対象となる配列が登録されていなければ、種名まで特定できない場合もある。
従来の分類学が不要になるのではなく、形態観察とDNA解析を組み合わせることで、より正確な多様性の把握が目指されている。
私たちは深海の多様性をどこまで知っているのか
現在の観察から確実に言えるのは、深海底が生物の乏しい単調な世界ではないということである。さまざまな環境に異なる生物群集が存在し、泥の内部にも多数の小型生物が暮らしている。
一方、「深海全体に何種いるのか」という問いには、まだ確定した答えがない。
未調査の海域が広く残り、採取できていない生物も存在する。採取済みの標本でさえ、すべてが種レベルまで分類されているわけではない。DNA調査によって新たな多様性が見えてきても、それを既知の生物種と対応させる作業が必要になる。
さらに、深海底の生物がどの程度の距離を移動し、離れた海域の集団同士がどのようにつながっているのかも、すべての種について分かっているわけではない。
深海の生物多様性には、「すでに観察された多様性」と「統計的・遺伝的に推定される多様性」、そしてまだ存在すら確認されていない未知の部分が重なっている。
だからこそ、深海の多様性を測ることは難しい。
一回の潜航で見えた景色も、一握りの泥から見つかった生物も、それだけでは深海全体ではない。私たちが得ているのは、巨大な海底世界から切り取られた無数の小さな窓である。
その窓を増やし、別々の場所で得られた観察、標本、DNA、環境データをつなぎ合わせることで、ようやく深海の生命の全体像が少しずつ浮かび上がってくる。