深海の世界は、本当に「色のない世界」なのか
深海を暗闇の世界と呼ぶことは間違いではありません。しかし、そこに光がまったく存在しないわけでもありません。海面から差し込む太陽光は水中を進むうちに弱まり、とくに赤や橙などの長波長の光は早く失われます。深い場所まで比較的届きやすいのは青い領域の光です。また、深海生物がつくる生物発光も青から青緑の領域に集中しています。研究では、深海で重要な自然光や生物発光の波長はおおむね470〜490ナノメートル付近に集中するとされています。
さらに深くなると、海面から届く光そのものがほとんどなくなります。水深1000メートル前後より深い外洋では、太陽由来の光よりも、生物が一瞬だけ放つ発光が重要な光源になります。
つまり深海魚の目にとって重要なのは、人間の世界のように赤、黄、緑、青が豊富に並ぶ景色を見ることではありません。非常に少ない光子を捕らえ、その光が背景なのか、生物発光なのか、獲物なのかを読み取ることです。
そのため、「深海魚には色覚があるのか」という問いは、意外に単純ではありません。
「光が見える」と「色が見える」は別の能力
人間の場合、色覚は波長に対する感度の異なる複数種類の錐体細胞から得られる信号を比較することで成立しています。
一方、暗い場所で働くのは主に桿体細胞です。桿体は少ない光を検出する能力に優れていますが、一般的な脊椎動物では主に1種類の桿体オプシンが使われるため、暗所では色の違いを判断しにくくなります。
ここで重要なのは、**ある波長の光を検出できることと、その波長を「色」として他の波長から区別できることは同じではない**という点です。
たとえば青い光に非常に敏感な魚がいたとしても、それだけでは「青という色を見ている」とは証明できません。青い光を単に明るい光として検出している可能性もあります。
深海魚の色覚を考えるときには、この区別が欠かせません。
多くの深海魚は「色」よりも感度を優先している
多くの深海魚では、網膜が桿体優勢、あるいはほぼ桿体だけという構造になっています。さらに桿体の視物質は、深海で比較的多く存在する青い領域の光に高い感度を示す方向へ調整されています。
これは深海環境を考えれば合理的です。
利用できる光が青付近に集中しているなら、幅広い色を均等に見る能力より、その限られた光をできるだけ確実に捉える能力のほうが生存に役立つ可能性があります。生物発光する獲物や捕食者を発見する場合にも、青緑色の微弱な閃光を検出できることが重要になります。
したがって、多くの深海魚の視覚を人間にたとえるなら、「暗闇の中で鮮やかな色彩を見る目」というより、「ごくわずかな光を拾うために極端に感度を高めた目」に近いと考えるほうが適切です。
ただし、深海魚をひとまとめにすることはできません。
子どものころと成魚で、見る世界が変わる魚もいる
深海魚には、成長段階によって使う視覚システムを大きく変える種類があります。
20種の深海性魚類について網膜で働く遺伝子を比較した研究では、成魚では桿体オプシンRH1への依存が強い一方、仔魚では中波長に感度を持つ錐体オプシンRH2が主に発現している例が確認されています。
これは、仔魚と成魚が同じ光環境で暮らしているとは限らないためです。深海魚の仔魚には比較的浅い海で生活し、成長すると深い場所へ移っていくものがあります。
浅い海では太陽光が豊富で、多様な波長があります。その環境では錐体を使った視覚が役立つ可能性があります。一方、成魚になって暗い深海へ移れば、色を細かく区別することより微弱光への感度が重要になります。
つまり「この深海魚には色覚があるか」という質問でも、成魚と仔魚で答えが違う可能性があります。
常識を変えた「銀色の魚」の目
深海魚の色覚研究で特に注目されているのが、ギンメダイ類の一種 *Diretmus argenteus* です。
通常、脊椎動物が暗所視に利用するRH1という桿体オプシン遺伝子は少数ですが、この魚のゲノムからは38種類のRH1遺伝子が確認されました。研究対象となった成魚では、そのうち複数のRH1が網膜で同時に発現していました。
それぞれのRH1は同じ波長に反応するわけではなく、アミノ酸配列の違いによって感度のピークが異なると推定されています。
この発見が興味深い理由は、一般には「錐体で色を見て、桿体で暗さを見る」と考えられてきた脊椎動物の視覚に、別の可能性を示したことです。
複数種類の桿体が異なる波長を受け持ち、その信号を神経系が比較できるのであれば、非常に暗い場所でも波長の違いを識別できる可能性があります。2019年の研究は、複数の桿体オプシンを使った深海での色識別という仮説を提示しました。
しかし、ここには重要な注意点があります。
**この魚が実際に深海で色を見分けていることが、行動実験によって直接証明されたわけではありません。**
遺伝子が多数あること、網膜でそれらが発現していること、異なる波長に感度を持つと推定されることは強い手掛かりです。それでも「魚自身が色の違いとして認識している」と結論づけるには、さらに神経回路や行動の証拠が必要です。
「赤い光」を利用する深海魚もいる
深海では赤い光は非常に少ないため、多くの深海生物は青付近の光に適応しています。
ところが、この一般則から外れる魚もいます。
ワニトカゲギス類の *Malacosteus niger* などでは、長波長側の生物発光と、それを検出するための特殊な視覚系が知られています。とくに *Malacosteus niger* の網膜には、長波長への感度を高める視物質に加え、バクテリオクロロフィル由来の光増感物質が存在することが確認されています。
深海では長波長の光を検出できる生物が限られるため、この発光が獲物を照らしたり信号として利用されたりする「目立ちにくい照明」として機能する可能性が考えられています。ただし、その具体的な用途については仮説を含みます。
ここでも注意したいのは、長波長を検出できることと、人間のように「赤色」を感じていることは別だという点です。
特殊な感度が確認されていても、その魚が赤と青をどのように知覚的に区別しているのかまでは分かっていません。
深海魚には、どんな景色が見えているのか
現在の研究から確実に言えるのは、深海魚の視覚は一種類ではないということです。
青付近の微弱光を効率よく検出することに特化した魚がいる一方、複数の桿体オプシンを持つ魚や、通常より長い波長まで検出できる魚も存在します。生活する水深や垂直移動の範囲によって、利用できる光環境そのものも変化します。
そのため、「深海魚には白黒の世界が見えている」「深海魚は青しか見えない」と一括して表現するのは正確ではありません。
一方で、「深海魚は暗闇でも人間のような多彩な色を見る」と考える根拠もありません。
現在の証拠からは、多くの種類では色の豊かさより微弱光への感度が重視され、一部の系統では異なる波長を区別する特殊な仕組みが進化した可能性がある、と表現するのが妥当です。
魚が感じる「色」は、まだ直接見ることができない
深海魚の視覚研究では、網膜の構造を顕微鏡で調べたり、オプシン遺伝子を解析したり、網膜で実際にどの遺伝子が発現しているかを調べたりします。視物質がどの波長を吸収するかを測定すれば、その魚が検出しやすい光も推定できます。
しかし、それらは魚の「主観的な見え方」を直接測っているわけではありません。
本当に色を見分けていることを強く示すには、明るさだけでは説明できない条件で、波長の異なる光を魚自身が選び分けるといった行動実験が重要になります。ところが深海魚は捕獲や長期飼育が難しく、本来の水圧や光環境を再現した実験にも大きな制約があります。
だからこそ、深海魚の色覚にはまだ空白が残されています。
複数の桿体から得られる信号を脳がどのように処理しているのか。生物発光の微妙な波長差から仲間と獲物を区別しているのか。自然環境と同じほど暗い条件でも波長を識別できるのか。これらの多くは、まだ十分には解明されていません。
深海の暗闇は、単なる「何も見えない黒」ではありません。そこには、ごく少数の光子と一瞬の生物発光から必要な情報を取り出すために進化した、多様な視覚世界があります。私たちがその世界の色をどこまで理解できるかは、今も深海研究の興味深い問題の一つです。