深海生物図鑑

気候変動は深い海にどう伝わるのか

海面から何千メートルも下にある深海は、地上の天候とは切り離された世界に見える。台風が通過しても、真夏の日差しが照りつけても、深海の水温が翌日に大きく変わるわけではない。

しかし、深海は地球の気候から独立しているわけではない。海は熱や二酸化炭素を大量に取り込み、その一部は海洋循環によって深い場所へ運ばれる。表層で起きた変化が、時間をかけて深海へ伝わっていくのである。

問題は、その伝わり方が単純ではないことだ。水温だけでなく、酸素、酸性度、海流、沈降する有機物などが変化し、それぞれが深海生物に影響する可能性がある。一方で、深海は観測が難しく、数十年から数百年以上にわたる変化については、まだ十分に分かっていないことも多い。

深海は「変化しない世界」ではない

一般に深海では、海面付近に比べて水温の日変化や季節変化が小さい。太陽光も届かず、波や風の直接的な影響も弱い。そのため、一見すると非常に安定した環境である。

ただし、「安定している」と「変化しない」は同じではない。

深海の水そのものが、もともとは海面近くにあった水に由来する場合がある。高緯度の海では、冷却や塩分の変化によって海水の密度が高くなり、深く沈み込む。こうした水塊が大規模な海洋循環の一部として移動することで、表層で受け取った熱や溶存物質の影響が深海へ運ばれる。

その移動には長い時間がかかる場合がある。したがって現在の深海で観測される変化が、最近数年の気候だけを反映しているとは限らない。

深海は、地球規模の気候変化をゆっくり受け取る巨大な環境なのである。

海が吸収した熱は深い場所にも運ばれる

温室効果ガスの増加によって地球全体に蓄積される熱の大部分は、海洋に取り込まれている。もっとも大きな変化が現れやすいのは上層の海だが、熱の一部は混合や海洋循環によってさらに深い層へ移動する。

実際、深層を含む海洋内部でも長期的な熱量の増加が観測されている。

ただし、深海全体が同じ速度で均一に暖まっているわけではない。海盆、深度、水塊の形成場所、海流などによって変化の大きさや時期は異なる。

また、深海ではもともとの水温変動が小さい場所が多い。このため、わずかな温度変化でも、長期間ほぼ一定の温度に適応してきた生物にとって無視できない可能性がある。

どの程度の昇温が個々の深海生物に重大な影響を与えるのかは、種によって異なり、十分な生理学的データがない生物も多い。

酸素の変化も重要になる

気候変動と深海環境を考えるとき、水温と並んで重要なのが酸素である。

海水が暖まると、一般に気体を溶かしておける量は減少する。また、海洋の成層や循環が変化すれば、表層から深い場所への酸素供給にも影響が出る可能性がある。

さらに、沈んできた有機物を微生物や動物が分解するときにも酸素が消費される。

こうした複数の要因が組み合わさるため、海洋の一部では溶存酸素の減少が問題になっている。

ただし、「気候変動によってすべての深海が一様に低酸素化する」と考えるのは正確ではない。酸素濃度の変化は地域差が大きく、海流や水塊の変化によって異なる挙動を示す可能性がある。

深海生物への影響についても、耐えられる酸素濃度は生物によって違う。低酸素環境に適応した種もいれば、比較的多くの酸素を必要とする種もいる。

そのため、酸素環境が変われば、生物が単純に減るだけではなく、分布や種の組み合わせそのものが変化する可能性がある。

二酸化炭素は海の化学も変える

大気中の二酸化炭素の一部は海へ溶け込む。

海水中に入った二酸化炭素は化学反応を起こし、水素イオン濃度や炭酸イオン濃度などを変化させる。この長期的な変化が海洋酸性化である。

「酸性化」という名称から、海水がただちに酸性になるように誤解されることがあるが、通常はアルカリ性である海水のpHが低下する現象を指す。

海面から取り込まれた人為起源の二酸化炭素の影響は、海洋循環によって内部へ運ばれる。そのため、深い海も海洋酸性化と無関係ではない。

特に注目されるのが、炭酸カルシウムの殻や骨格をつくる生物への影響である。炭酸塩の化学状態が変化すれば、石灰化や殻の維持に影響する可能性がある。

ただし、深海に暮らすすべての石灰化生物が同じ反応を示すわけではない。水温、餌、酸素、成長速度などほかの条件も関係するため、実際の生態系への影響は複雑である。

深海生物にとって「上から降る餌」も変わる

深海の多くの場所では、太陽光を利用した光合成ができない。

熱水噴出孔や冷湧水域など、化学合成を基盤とする特殊な生態系を除けば、多くの深海生物は表層でつくられた有機物に直接または間接的に依存している。

プランクトンの死骸、排出物、粘液状の粒子などが集まり、ゆっくり沈降して深海へ届く。こうした有機物の輸送は、しばしば「マリンスノー」と呼ばれる現象の一部として観察される。

ところが気候変動によって、海面付近の水温、栄養塩の供給、植物プランクトンの生産、生物群集などが変われば、深海へ届く有機物の量や質、季節性も変化する可能性がある。

ここには大きな不確実性がある。

表層で生産量が増えれば、その分だけ深海への餌も増えるとは限らない。沈降途中で微生物などに分解される割合も変わるからだ。

したがって、深海生態系への気候影響を理解するには、水温だけでなく「どれだけのエネルギーが海底まで届くのか」を追う必要がある。

海底の長期観測から見えてきた変動

深海研究では、海底カメラ、係留観測装置、採水、堆積物採取、自律型無人潜水機など、さまざまな方法が使われている。

こうした観測から、深海生態系が必ずしも一定ではなく、表層から沈んでくる有機物の変動などに応じて、生物の数や活動が変化することが分かってきた。

つまり、深海生物は地上の季節から完全に切り離されているわけではない。海面付近で起こった生物生産の変化が、時間差を伴って深海底へ届く場合がある。

一方、地球規模の気候変動による影響と、自然な年々変動や数十年規模の変動を区別することは簡単ではない。

深海の連続観測地点は陸上や海面の気象観測地点ほど多くなく、観測期間にも限界がある。そのため、ある場所で生物が増減したとしても、その原因を気候変動だけに求められない場合がある。

変化の速さそのものが問題になる可能性

深海には、低水温、暗闇、高圧、餌の少なさといった条件に適応した生物が暮らしている。

環境が長期間安定してきた場所では、生物が急激な変化に対応できる範囲が狭い可能性が指摘されている。ただし、深海生物の温度耐性や酸素耐性については、実験データが限られる種も非常に多い。

さらに、深海生物には成長や繁殖が遅いものもいる。こうした種では、一度個体群が大きく減少した場合、回復に長い時間がかかる可能性がある。

しかし深海生物を一括して「変化に弱い」とみなすこともできない。浅い海から深い海まで広く分布する種もいれば、さまざまな環境変化に耐える生物もいる。

重要なのは、それぞれの生物がどの程度の環境幅に適応しているのかを調べることである。

海洋循環そのものはどう変わるのか

さらに大きな問題が、深海へ水を運ぶ海洋循環の変化である。

海水の沈み込みは温度や塩分によって左右されるため、海面の温暖化、降水量、海氷の形成・融解、淡水流入などが変化すれば、大規模な循環にも影響する可能性がある。

ただし、将来どの地域で、どの程度、どの速度で深層循環が変化するかについては不確実性が残る。

海洋循環が変われば、熱だけでなく、酸素、炭素、栄養物質の輸送も変化する。その結果は深海生態系だけにとどまらず、海洋全体の炭素循環にも関係する。

深海は気候変動の「被害を受ける場所」であるだけではない。地球の熱や炭素を蓄え、運ぶことで、気候システムそのものにも深く関わっている。

深海は気候変動の記録庫でもある

海底に積み重なる堆積物は、過去の環境を調べる重要な手がかりになる。

堆積物に残された微化石や化学成分、同位体などを調べることで、研究者は過去の海水温、氷床量、海洋循環、生物生産などを推定してきた。

もちろん、海底堆積物が過去をそのまま映した映像記録というわけではない。堆積後に物質が混ざったり、溶けたり、化学的に変化したりすることもあるため、複数の指標を組み合わせて解釈する必要がある。

それでも、深海底に積み重なった物質は、人間が直接観測できなかった時代の気候を知る貴重な資料である。

現在起きている変化を理解するためにも、過去の自然変動と比較することが欠かせない。

まだ分からないことは多い

気候変動が深海へ伝わる基本的な経路はかなり理解されている。

海が熱と二酸化炭素を吸収すること、海洋内部の温度や化学状態が変化していること、酸素や有機物供給の変化が深海生態系に影響し得ることには、多くの観測と物理・化学的な根拠がある。

一方で、「ある深海生物が今後何年でどれだけ減るのか」「深海の食物網がどのように組み替わるのか」といった具体的な未来には、大きな不確実性が残る。

深海には未記載の生物が多く、生態や生理がほとんど分かっていない種も珍しくない。そもそも現在の状態を十分把握できていない場所では、将来変化を正確に予測することはさらに難しい。

だからこそ、長期観測が重要になる。

地上では急激に進んでいるように見える気候変動も、深海では何年、何十年、場合によってはさらに長い時間をかけて現れる。しかし、伝わるのが遅いからといって、影響が存在しないわけではない。

光の届かない海の底にも、地球表面で起きた変化は静かに到達する。

深海は遠く隔絶された世界であると同時に、海面、大気、そして私たちの暮らす地上とつながった、地球規模の気候システムの一部なのである。