深海では、太陽光がほとんど、あるいはまったく届かない場所にも、驚くほど密集した生物群集が現れることがある。熱水噴出孔の周囲を覆う貝類や甲殻類、冷湧水域に集まる二枚貝などは、その代表例だ。
では、光合成のできない暗黒の海底で、生物を支える有機物はどこから来るのだろうか。
その答えの一つが、**化学反応から得たエネルギーを利用して有機物をつくる微生物**である。なかでも深海生態系で重要な役割を担っているのが、硫化水素などの還元型硫黄化合物を利用する「硫黄酸化細菌」だ。
彼らは単に深海に生息している微生物ではない。地球内部から供給される化学物質と海水を結びつけ、動物たちが利用できる生物量へと変換する、深海の物質循環の重要な担い手なのである。深海熱水域では、こうした化学合成微生物による一次生産が海底下でも行われていることが示されている。
光ではなく、化学反応からエネルギーを得る
植物や植物プランクトンは、太陽光のエネルギーを利用して二酸化炭素から有機物をつくる。一方、硫黄酸化細菌の一部は、硫化水素、チオ硫酸、元素状硫黄などの還元型硫黄化合物を酸化するときに得られるエネルギーを利用する。
たとえば硫化水素を最終的に硫酸塩へと酸化できる微生物がいる。その過程で取り出したエネルギーを使い、二酸化炭素などの無機炭素から細胞を構成する有機物を合成する。
このような生き方は「化学合成独立栄養」などと呼ばれる。
ただし、「硫黄酸化細菌」という名前の生物が一種類いるわけではない。硫黄化合物を利用する能力は複数の系統の細菌に見られ、使う物質や代謝経路も同一ではない。酸素を利用して硫黄を酸化するものがいる一方、条件によっては硝酸などを利用できるものも知られている。
したがって、「硫黄酸化細菌は硫化水素を食べている」とだけ表現すると、少し粗すぎる。より正確には、**硫黄化合物を電子供与体として利用し、その酸化還元反応から生命活動に必要なエネルギーを得ている**のである。
なぜ熱水噴出孔の周囲に集まるのか
深海の熱水噴出孔では、海底下を循環した高温の流体が海中へ放出される。熱水には場所によって濃度は異なるものの、硫化水素、水素、メタンなど、微生物がエネルギー源として利用可能な還元性物質が含まれる。
一方、周囲には海水がある。
この二つが混ざる場所には、大きな化学的な差が生まれる。硫黄酸化微生物にとって重要なのは、単純に「硫化水素が多い場所」ではない。還元された物質と、それを酸化するための物質が出会う境界である。
熱水プルームについての研究でも、還元型硫黄化合物は微生物が利用する主要なエネルギー源の一つであり、硫化水素や元素状硫黄の酸化が重要な硫黄変換過程になっていることが示されている。
このため熱水噴出孔の周囲では、温度、酸素濃度、硫化物濃度などが少し変わるだけで、生息しやすい微生物も変化する。
深海の熱水域は一様な環境ではない。数センチ、数メートルと場所が変わるだけでも化学条件が大きく異なり、それに対応した微生物群集が形成される。
冷湧水域でも硫黄酸化細菌は働く
硫黄酸化細菌が活躍するのは、熱水噴出孔だけではない。
海底からメタンなどを含む流体がゆっくり湧き出す「冷湧水域」でも、白っぽい微生物マットが形成されることがある。その構成員には硫黄酸化微生物が含まれる。
ただし、ここで利用される硫化物がすべて地下深部から直接供給されているとは限らない。
冷湧水域の堆積物内部では、メタンを酸化する微生物と硫酸還元に関わる微生物の活動によって硫化物が生じる場合がある。その硫化物が海底表面付近へ移動すると、今度は硫黄酸化微生物のエネルギー源になる。
つまり、
**メタン → 微生物による反応 → 硫化物 → 硫黄酸化微生物**
というように、複数の代謝がつながった生態系が形成されうる。
深海の化学合成生態系は、一種類の「特殊な細菌」だけで成立しているわけではない。異なる微生物たちの代謝が連結し、炭素、硫黄、窒素などの循環を形づくっているのである。
白い微生物マットは何を示しているのか
冷湧水域や硫化物に富む海底では、糸状の硫黄酸化細菌などが集まり、海底を白い膜のように覆う場合がある。
こうしたマットが見つかれば、そこに硫黄化合物を利用する活発な微生物活動が存在する可能性を示す手掛かりになる。
ただし、海底映像で白い領域が見えただけで、その構成微生物や代謝を確定することはできない。似た外観の微生物群集もありうるためだ。
実際の研究では、試料採取に加えて、遺伝子解析、化学成分の測定、酸素や硫化物の濃度分布の測定などを組み合わせる。
微生物の「姿」だけではなく、**どの遺伝子を持ち、どの物質がどこで消費・生成されているか**を見ることで、初めて海底で進んでいる反応を推定できる。
動物の体内に住む硫黄酸化細菌
硫黄酸化細菌の重要性を特に分かりやすく示しているのが、深海動物との共生である。
熱水噴出孔や冷湧水域には、化学合成微生物を体内や体表に保持する動物が存在する。二枚貝、巻貝などさまざまな動物群で、硫黄酸化細菌との共生が確認されている。
共生細菌は環境から硫化物などを受け取り、その化学エネルギーによって有機物を合成する。宿主側は、その生産物を栄養源として利用できる。
化学合成微生物との共生は海洋動物の複数の系統で独立に成立しており、共生細菌が利用するエネルギー源も硫黄化合物だけではない。メタンや水素などを利用する共生系も存在する。
さらに、一匹の動物が異なる代謝を行う複数種の共生細菌を持つ例も知られている。深海性巻貝の一種では、硫黄酸化細菌とメタン酸化細菌の両方を体内に持つことがゲノム解析から示されている。
そのため、深海動物と微生物の関係を「動物が一種類の細菌を飼っている」という単純な図式で理解することはできない。
硫化水素を消す存在でもある
硫化水素は、多くの動物にとって高濃度では有害な物質である。
硫黄酸化細菌はそれをエネルギー源として酸化するため、結果として環境中の硫化物濃度を変化させることがある。
糸状硫黄細菌の一部では、硫化物が供給される堆積物と酸化剤が存在する領域の境界に生息し、硫化物の流れを取り込むことが確認されている。
ただし、これを「細菌が深海を浄化している」と目的論的に表現するのは適切ではない。
細菌自身に海底環境をきれいにする目的があるわけではない。自身の代謝の結果として、周囲の硫黄化合物の分布が変化し、その変化がほかの生物の生息条件にも影響するのである。
深海生態系は本当に太陽から独立しているのか
熱水噴出孔の生態系はしばしば「太陽に頼らない生態系」と表現される。
これは半分は正しい。
硫黄酸化細菌は、光そのものをエネルギー源にする必要がない。海底の一次生産は暗闇の中でも成立できる。その意味では、光合成とは明確に異なる。
しかし、生態系全体が地表の世界から完全に切り離されていると考えるのは単純すぎる。
多くの硫黄酸化微生物が利用する酸素は、地球規模では光合成活動と深く関係している。また深海には、表層から沈降してきた有機物も供給される。
したがって、熱水噴出孔は「太陽光が直接届かなくても一次生産が成立する場所」と考えるのがより正確だろう。
何が分かり、何がまだ分からないのか
現在では、硫黄酸化細菌が熱水噴出孔、冷湧水域、海底堆積物、海中の熱水プルームなどさまざまな環境に存在することは、培養、化学測定、遺伝子解析などから確かめられている。
また、硫黄化合物の酸化が化学合成による一次生産を支え、多くの深海動物との共生にも利用されていることも確立された知見といえる。
一方で、**どの微生物が海底のどの場所で、実際にどれだけの物質を変換しているのか**となると、不明な点は多い。
海底には培養が難しい微生物が多数存在する。遺伝子が検出されたとしても、その微生物が調査時点でどの程度活動していたかは別の問題である。さらに熱水噴出量や海水との混合状態は変動するため、一度の観測だけで長期的な生態系の働きを判断することは難しい。
ゲノム解析によって「何ができそうか」は以前より詳しく推定できるようになった。しかし「その瞬間、海底で何をしていたのか」を確かめるには、化学分析や代謝活性の測定など別の証拠も必要になる。
暗い海底を動かす、目に見えない一次生産者
熱水噴出孔から硫化水素を含む流体が湧き出す。その物質が海水と出会い、硫黄酸化細菌が化学反応からエネルギーを取り出す。そして無機炭素からつくられた有機物が、微生物自身の成長や、共生する動物たちの栄養へとつながっていく。
そこには太陽の光は必要ない。
深海に巨大な動物群集を成立させているものの一つは、海底から上がってくる化学物質と、それを利用できる微生物の代謝なのである。
ただし、私たちが現在知っているのは、その複雑なネットワークの一部にすぎない。硫黄酸化細菌がどこまで深海の一次生産を担い、ほかの微生物との間でどのように物質を受け渡しているのか。海底下まで含めれば、その規模にはなお大きな不確実性が残る。
暗闇の深海で動物たちを支えているのは、目立つ巨大生物だけではない。
海水と岩石の境界で進む小さな化学反応を生命へ変換する微生物こそが、深海生態系の根元にある存在なのである。