深海の海底には、砂や泥だけが広がっているわけではない。岩の上にはサンゴやカイメンが成長し、堆積物の表面や内部には多毛類、甲殻類、二枚貝、微生物などが暮らしている。魚にとっても、海底の凹凸や生物がつくる構造は隠れ場所や餌場になりうる。
その海底を漁具が移動するのが底引き網漁である。魚介類を効率よく漁獲できる重要な漁法である一方、海底と接触するため、生態系への物理的な影響が研究されてきた。底引き網の影響は実際に観察されているが、「一度網を引けば海底が永久に破壊される」と単純化することも正確ではない。影響の大きさと回復の速さは、漁具、海底の地質、生物群集、操業頻度などによって大きく異なる。
底引き網は海底で何をしているのか
底引き網とは、海底付近にいる魚や甲殻類などを捕らえるため、網やその一部を海底に接触させながら曳航する漁法の総称である。実際の漁具にはさまざまな形式があり、海底への接触の仕方も同じではない。
海底に接する部分が通過すると、堆積物がかき混ぜられたり、表面の凹凸が変化したりすることがある。また、そこに付着している生物が倒れる、壊れる、移動する、漁具に取り込まれるといった変化も起こりうる。底引き網やその他の曳航漁具が底生生物と海底環境を変化させることは、多くの研究から確認されている。
ただし、「海底に接触する」という一点だけで、すべての底引き網を同じ強さの攪乱として扱うことはできない。柔らかな泥底と岩礁では影響の現れ方が違い、もともと波や潮流によって頻繁に動かされる海底と、自然状態ではほとんど攪乱されない場所でも条件は異なる。
深海を考えるとき、この違いは特に重要になる。
深海では回復の遅さが問題になる
深海は一般に低温で暗く、表層から沈んでくる有機物に強く依存する環境が多い。場所によっては生物の成長が遅く、海底に形成された生物群集が長い時間をかけて発達している。
典型的なのが深海サンゴや大型のカイメンである。
サンゴやカイメンが密集すると、それ自体が海底の立体構造となり、魚類や無脊椎動物が利用できる複雑な生息場所をつくることがある。ところが、こうした直立した生物は、海底を通過する漁具と接触すると折れたり、倒されたり、取り除かれたりする可能性がある。NOAAも、底引き網を深海サンゴ生息地に対する物理的攪乱の一つとして挙げている。
問題は、壊れた構造がすぐ元に戻るとは限らないことである。
深海のサンゴには非常に長寿命のものがあり、成長が遅い種類も知られている。カイメンについても、実験的な底引き後に個体数や損傷状態を追跡した研究では、長期間たっても影響が残った例が報告されている。
したがって、深海では「漁具が一度通ったとき何匹死ぬのか」だけでなく、「失われた立体的な生息場所が何年、何十年という時間スケールで再形成されるのか」が重要になる。
海底の「平らな泥」も無生物ではない
サンゴ礁のような目立つ構造がなければ、影響は小さいように見えるかもしれない。しかし、泥や砂の海底そのものも生態系である。
堆積物の内部には小型の無脊椎動物や微生物が存在し、海底に沈んできた有機物の分解や元素循環に関わっている。底引き網によって表層の堆積物が攪拌されれば、そこに住む生物の分布や海底表面の状態が変化する可能性がある。底引きによる堆積物の再懸濁や有機物への影響も研究対象となっている。
もっとも、ここでも影響は一様ではない。
潮流が強く、自然に堆積物が頻繁に動いている場所では、もともと攪乱に耐える生物が多い可能性がある。一方、長期間安定していた海底では、同じような漁具の通過でも影響が大きくなる可能性がある。
つまり、海底の見た目だけから脆弱性を判断することは難しい。
漁具の跡から何が分かるのか
深海探査では、有人潜水船、ROV、AUV、曳航カメラなどによって海底を撮影すると、直線的な溝や海底を横切る痕跡が見つかることがある。
こうした映像と漁業活動の記録を組み合わせれば、漁業の強い場所と弱い場所でサンゴやカイメンの量、損傷状態、底生生物群集などを比較できる。実際に北米西岸などでは、水深数百メートルから2000メートルを超える海域の映像を用いて、深海サンゴやカイメンの損傷と底引き漁業との関係を調べる研究が行われている。
しかし、海底に溝があるからといって、その一本だけを見て生態系への影響量を正確に計算できるわけではない。
いつ形成された跡なのか、どの漁具によるものなのか、その場所が以前どのような状態だったのかが分からなければ、原因と変化量を切り分けるのは難しい。底引き網研究では、操業されている場所と比較できる適切な未操業区を確保しにくいことも、回復過程を調べるうえでの課題とされてきた。
深海では観察そのものが難しいため、この問題はさらに大きくなる。
「回復した」をどう判断するか
底引き網の影響を考えるうえで難しいのが、回復という言葉である。
海底表面の溝が見えなくなれば回復なのか。小型の生物が戻れば回復なのか。大型のサンゴやカイメンまで以前と同じ状態になって初めて回復なのか。
答えは研究目的によって変わる。
移動能力が高く、世代時間の短い生物なら比較的早く再び現れる可能性がある。一方、長寿命で海底に固定され、複雑な構造を形成する生物では、同じ時間での回復を期待できない場合がある。実際、底引き漁の停止後に底生生物群集が変化していくことは観察されている一方、その速度は生物群や環境によって異なる。
そのため、「底引き網から何年で海底が回復する」という単一の数字を、あらゆる海域に当てはめることはできない。
海底の炭素まで影響するのか
近年は、底引き網によって堆積物が攪拌されることで、海底に蓄えられた有機炭素の循環が変化する可能性も議論されている。
物理的には、漁具が堆積物を巻き上げれば、有機物が水中へ再懸濁したり、酸素に触れやすくなったりする可能性がある。そのため、底引き網と海底炭素貯蔵を結びつける研究が行われている。
ただし、その影響量、二酸化炭素として最終的に大気へ影響する量、海域ごとの差については研究上の不確実性が大きい。底引き網が通れば一定量の炭素が必ず大気へ放出される、と単純に扱うことはできない。実際、堆積物中の炭素量への影響が明瞭ではなかった研究もあり、海底の性質や環境条件を分けて考える必要がある。
ここは、底引き網研究のなかでも結論を慎重に扱うべき領域である。
魚を獲ることと海底を変えることは別の問題でもある
底引き網が生態系に与える影響には、大きく分けて二つの側面がある。
一つは、目的とする魚介類や混獲される生物を海から取り除く「漁獲」の影響。もう一つが、漁具そのものが海底に接触する「物理的攪乱」の影響である。
両者は同時に起こりうるが、科学的には区別して考える必要がある。
ある魚種の資源量が適切に管理されていたとしても、非常に脆弱な海底生息地に漁具が繰り返し接触すれば、生息環境への問題は残りうる。逆に、海底への物理的影響が比較的小さな場所であっても、漁獲量が過大なら魚類資源には別の問題が生じる。
「魚が獲れているから海底も健全」「海底に跡があるから漁業全体が持続不可能」というどちらの推論も、それだけでは成立しない。
深海では「どこを曳くか」が大きな意味を持つ
底引き網の影響を考えるとき、漁法の名称だけで善悪を決めるよりも重要なのは、どのような海底で、どのような漁具を、どれほどの頻度で使用するかである。
もともと繰り返し操業されてきた泥底と、長期間ほとんど攪乱されていない深海サンゴ群集では、同じ一回の操業が持つ意味は違う。特に長寿命のサンゴや大型カイメンなどが集まる場所では、物理的な損傷が長期的な生息地変化につながる可能性がある。こうした脆弱な生態系への影響は、深海漁業管理でも重要な問題として扱われてきた。
一方で、広大な深海のどこに脆弱な群集が存在するのかさえ、完全には分かっていない。
海底地形の測量、映像調査、漁獲物の記録、環境DNA、漁船の操業情報などを組み合わせることで分布予測は進んでいるが、実際に観察されていない海域は依然として多い。
網の先にある、まだ見えていない海底
深海の底引き網問題が難しいのは、人間の利用と未知の生態系が同じ場所で重なっているからである。
漁具による海底の攪乱、サンゴやカイメンの損傷、底生生物群集の変化は、観察や実験によって確認されている。深海では一部の生物の回復が遅いことも分かっている。
一方、「ある海域が元の状態に戻るまで何年かかるのか」「繰り返しの操業によって生態系全体の機能がどこまで変わるのか」「未調査海域にどれほど脆弱な生物群集が残されているのか」といった問いには、まだ十分な答えがない。
暗い海底を網が通ったあと、そこに何が失われ、何が残り、何が再び戻ってくるのか。
それを知るには、漁獲量だけを見るのでは足りない。網の下に広がる海底そのものを観察し、長い時間をかけて変化を追う必要がある。深海の底引き網をめぐる科学は、漁業の研究であると同時に、私たちがまだ十分には見たことのない海底生態系を理解する研究でもある。