深海生物図鑑

人間のつくる音は深い海まで届くのか

海の底は、音のない世界に見える。

太陽光がほとんど届かず、波の音も遠い。深海探査機の映像を見ると、そこには静寂だけが広がっているように感じられる。しかし、映像が静かだからといって、海そのものが無音とは限らない。

海中では、光よりも音がはるかに遠くまで伝わりやすい。そのため深海にも、地震、海底火山、雨や波、生物の発する音など、さまざまな音が届く。そして現代の海には、船舶や音響探査など、人間が生み出した音も加わっている。

では、海面近くで生まれた人間の音は、本当に何千メートルも下の暗い海まで届くのだろうか。

深海は「静かな場所」とは限らない

深海を考えるとき、「暗い」「冷たい」「高圧」という特徴はよく知られている。一方で、音については直感と実際の環境が一致しにくい。

空気中では遠くの音は急速に弱くなるが、水中では条件によって音が長距離を伝わる。とくに低い周波数の音は比較的減衰しにくく、広い海域へ届くことがある。

そのため、深海にいる生物が感じる音の世界は、私たちが深海映像から想像する「完全な静寂」とは異なる可能性が高い。

自然界にも音源は多い。海底で起きる地震や火山活動、海流や乱流、海面で砕ける波、嵐、氷の動きなどは水中に振動を生み出す。クジラ類をはじめ、生物自身が発する音も海の音環境の一部である。

つまり、人間が海へ進出する以前から、深海はさまざまな振動に満ちた場所だった。

問題は、その自然の音環境に、性質の異なる人工音が加わっていることである。

船の音は深海まで届くのか

現在の海で特に広範囲に存在する人工音源の一つが船舶である。

大型船はエンジンや機械だけでなく、プロペラの回転によっても水中音を発生させる。とくに、プロペラ周辺で圧力が変化して気泡が生じ、それがつぶれる現象は強い水中音の原因になる。

こうした船舶音には低い周波数の成分が多く含まれる。低周波音は海中を比較的遠くまで伝わるため、音源からかなり離れた場所でも観測される場合がある。

したがって、「船が深海の真上を通過したときだけ音が届く」という単純なものではない。海水の温度、塩分、水深によって音の速さが変化すると、音は屈折しながら複雑な経路を進む。

条件によっては、海面付近で発生した音が深い水深へ到達することもある。

ただし、すべての船の音が同じ強さで海底まで届くわけではない。船の大きさや速度、プロペラの状態、水深、海底地形、音の周波数などによって伝わり方は大きく変化する。

そのため「船の音は水深何メートルまで届く」と一つの数字で区切ることはできない。

海には「音が遠くまで進みやすい層」がある

海中の音を考えるうえで重要なのが、音速の分布である。

海水中の音速は一定ではない。水温、圧力、塩分などによって変化する。一般に水深が増すと圧力は高くなるが、上層では水温の低下も大きな影響を与える。

その結果、海洋には音が特定の深さ付近へ屈折しながら閉じ込められ、長距離を伝わりやすくなる領域が形成されることがある。

これは深海の音環境を特徴づける重要な現象である。

低周波音がこのような経路に入り込めば、発生地点から非常に離れた海域まで伝わる可能性がある。

つまり深海では、「近くに音源がないから静か」とは限らない。水平距離で遠く離れた場所の音が届くこともあり得る。

私たちが地上で経験する音環境とは、距離の感覚そのものが違うのである。

船以外にも人工音はある

人間が海へ出している音は船舶だけではない。

海底の地下構造を調べるための音響調査では、強い音を水中へ送り、その反射を利用して地層を推定する方法が使われる。魚群探知機や測深機、各種ソナーも音波を利用する。

海洋研究でも音響機器は重要である。深海探査では、海底地形の測定や探査機との通信、位置確認などに音が使われることがある。

この点は単純に「人工音は悪い」と整理できない。

音響技術そのものが、深海という人間が直接見ることの難しい環境を調査する重要な手段でもあるからだ。

一方で、音源の強さ、周波数、継続時間、繰り返し頻度によっては、生物への影響を検討する必要がある。

海洋騒音の問題は、音が存在するかどうかではなく、「どのような音が、どれほどの範囲で、どの生物に、どのような変化を与えるのか」という形で考える必要がある。

深海生物は音を感じているのか

ここから先は、生物によって事情が大きく異なる。

魚類には、水中の振動や圧力変化を感知する仕組みがある。魚の体側に並ぶ側線は、周囲の水の動きを捉える感覚器であり、内耳も音や振動の知覚に関わる。

甲殻類や頭足類などでも、水の振動や動きを感知する能力が知られている。

したがって、深海生物にとって水中の振動がまったく意味を持たないとは考えにくい。

しかし、深海に生息する多数の種について、どの周波数をどの程度感じ取れるのかまで詳しく分かっているわけではない。

ここは重要な未解明部分である。

浅い海や飼育環境で研究しやすい生物については音への反応を調べられるが、水深数千メートルに生息する生物を自然状態のまま実験することは容易ではない。

そのため、「人工騒音が深海生物すべてに深刻な影響を与えている」と一括して断定することも、「影響はない」と判断することもできない。

音が届くことと、害があることは別の問題

人工音が深海まで到達する可能性があるとしても、それだけで生物への悪影響が証明されたことにはならない。

音の影響にはさまざまな段階が考えられる。

非常に強い音であれば、感覚器官などへの物理的影響が問題になる可能性がある。一方、それより弱い音でも、生物が音源から離れる、行動を変える、餌を探す行動や捕食者への反応が変化するといった影響が起きる可能性がある。

さらに弱い音では、聞こえていても行動に目立った変化が現れない場合も考えられる。

この違いを無視して「音が聞こえる=被害を受ける」と考えることはできない。

また、生物が一時的に行動を変えたとしても、それが個体の生存率や繁殖、さらに個体群全体へどこまで影響するかは別の問題である。

深海では、この因果関係を追跡することが特に難しい。

深海では影響を観察すること自体が難しい

深海騒音研究の大きな難しさは、対象となる環境へ簡単に近づけないことである。

水中マイクを設置すれば、ある地点の音を記録することはできる。しかし、その音を周囲の生物がどのように認識していたのかを直接知るのは難しい。

映像を同時に記録できても、見えている生物は周辺に存在する生物の一部にすぎない。

さらに、深海生物は水温や水圧の変化に弱いものも多く、地上へ持ち帰って実験すれば自然状態とは異なる条件になってしまう。

こうした制約のため、現在分かっていることには偏りがある。

海洋哺乳類や比較的研究しやすい魚類では音響研究が多い一方、深海の無脊椎動物や希少な魚類については情報が限られている場合が少なくない。

つまり、「研究で影響が確認されていない」という事実が、そのまま「影響が存在しない」ことを意味するわけではない。

単に十分調べられていない可能性も区別する必要がある。

海底開発が進めば音環境も変わるかもしれない

今後、深海の音環境を考えるうえでは、船舶だけでなく海底で直接行われる人間活動も重要になる可能性がある。

海底資源の調査、構造物の設置、無人探査機の運用など、人間がより深い海域を利用する機会が増えれば、これまで人工音源の少なかった場所で新しい音が発生する可能性がある。

ただし、その影響の大きさは活動内容によって異なる。

深海という言葉だけで一括りにすることもできない。大陸斜面、深海平原、海山、海溝では地形も生態系も異なる。音の伝わり方も同じではない。

将来の環境評価では、単に音源の大きさを測定するだけでなく、その場所にもともと存在する音環境と、そこに暮らす生物の感覚能力を組み合わせて考える必要がある。

私たちはまだ「深海の音風景」を十分に知らない

深海の世界は、暗い。しかし無音ではない。

地震が海底を揺らし、遠くの波や嵐が振動を送り、生物が水を動かす。その中へ、船舶やソナー、音響調査など、人間がつくる音が入り込んでいる。

人工音の一部が深い海まで届くこと自体は、海中での音の伝わり方から考えて不思議ではない。

一方、その音が深海生物にどの程度聞こえ、どの程度行動を変え、長期的に生態系へどのような影響を与えているのかについては、分からない部分が多い。

深海の騒音問題で最も大きな未知は、音そのものではなく、それを受け取っている生命の側にあるのかもしれない。

光のない海で、生物たちはどのような「音の世界」に暮らしているのか。

その世界を理解することは、深海を目で見るだけでは分からない環境として捉え直すことでもある。