深海生物図鑑

深海帯の海底にはどんな環境が広がるのか

光のない海の底に広がる世界

海面から数千メートル下へ降りていくと、昼も夜もなくなる。上空には何千メートルもの海水が重なり、太陽光は届かず、水温は低く、水圧は巨大になる。そのさらに先、一般に水深約4,000〜6,000メートルの範囲は「深海帯」と呼ばれる。英語の *abyssal zone* に対応する区分で、その下、水深6,000メートルを超える海溝などは超深海帯として分けられることが多い。区分の境界は研究分野によって多少異なるため、4,000メートルや6,000メートルという数字は絶対的な壁ではない。[ノア気象庁+1](https://www.noaa.gov/jetstream/ocean/layers-of-ocean)

「深海」という言葉からは、急斜面や底知れない裂け目を想像するかもしれない。しかし深海帯の海底で大きな面積を占めるのは、意外にも広大で緩やかな海底である。そこには深海平原があり、ときには海山や海嶺、断層、堆積物に覆われた丘陵が点在する。

見た目には静かな暗黒の平原でも、その海底では物質が降り積もり、生物が移動し、微生物が有機物を分解し続けている。深海帯は「何もない場所」ではなく、地球上でもっとも広大な生息環境の一つなのである。JAMSTECによれば、水深3,500〜5,500メートルの海底だけでも非常に大きな面積を占め、特に水深4,000メートルを超える海底は広く分布している。[JAMSTEC](https://www.jamstec.go.jp/50th/column/column04.html)

深海平原は本当に平らなのか

深海帯を代表する地形が深海平原である。JAMSTECは深海平原を、水深4,000〜6,000メートルの深海帯にみられる平坦な地形として説明している。[JAMSTEC](https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20231010/)

海洋プレートそのものには火山や割れ目などによる凹凸がある。それでも長い時間をかけて上から細かな粒子が降り積もり、低い場所を埋めていくことで、非常に緩やかな海底が形成される。したがって「平原」といっても完全な平面ではない。小さな起伏、岩石、海山、断層、動物が掘った穴などが存在し、数センチメートルから数キロメートルまでさまざまな規模の地形が重なっている。

この細かな違いは生物にとって重要である。泥の中に潜る生物、表面を歩く生物、岩や鉱物に付着する生物では必要とする場所が異なる。海底の地形や底質が少し変わるだけでも、生息する生物の組み合わせが変化する可能性がある。

つまり、遠くから見ると単調な平原でも、生物の視点では無数の小さな環境が並んでいる。

暗黒、低温、そして数百気圧の水圧

深海帯には太陽光が届かない。NOAAの海洋区分では、水深1,000メートルより深い領域は太陽光の届かない無光層に含まれ、深海帯もその中にある。そこで見える光があるとすれば、生物発光や探査機の照明など、太陽とは別の光源によるものになる。[NOAA Ocean Exploration](https://oceanexplorer.noaa.gov/ocean-fact/light-distributed/)

水温も低い。表層で温められた海水とは異なり、深層の海水は一般に数℃程度である。ただし海域、水塊、海底から湧き出す流体などによって条件は変化するため、「深海帯はどこでも同じ温度」と考えることはできない。NOAAも深海の平均的な水温を約4℃としているが、これは世界中の深海底が一律に4℃という意味ではない。[NOAA Ocean Exploration+1](https://oceanexplorer.noaa.gov/ocean-fact/deep-ocean/)

そして最も直感的に理解しにくい条件が水圧である。海中ではおよそ10メートル深くなるごとに約1気圧ずつ圧力が増える。水深5,000メートルでは、およそ500気圧に達する。[PMEL+1](https://www.pmel.noaa.gov/eoi/nemo1998/education/pressure.html)

しかし、そこで暮らす生物が常に「押しつぶされる力に耐えている」と表現するのは正確ではない。深海生物の体内も周囲の海水と圧力の釣り合った状態にあり、人間の肺のような大きな気体空間を持たないものが多い。一方、高圧は細胞膜やタンパク質などの働きに影響するため、深海生物には高圧環境で生命活動を維持するための生理的な適応が必要になる。

海底を覆う「泥」はどこから来るのか

深海平原の多くは、細かな堆積物に覆われている。

そこに積もる粒子の一部は、はるか上の海からやってくる。プランクトンの遺骸、微細な有機物、鉱物粒子などが水中をゆっくり沈み、海底へ到達する。こうした物質は一括して「マリンスノー」と呼ばれることもある。

ただし、海面付近で作られた有機物がそのまま大量に深海底へ届くわけではない。沈降する途中で動物に食べられたり、微生物に分解されたりする。そのため深海底に到達するころには利用できるエネルギーが少なくなっていることが多い。

この事情が、深海底の生態系を理解するうえで重要になる。

広い深海平原では、多くの生物が表層から沈んでくる有機物に依存している。食べ物が途切れず大量に供給される場所ではなく、少量の物質を利用しながら暮らす世界なのである。

一方で、ときには大きな食物が突然落ちてくる。魚や大型動物の死骸、木片などである。クジラの遺骸のように大量の有機物が海底へ到達すると、周囲とは大きく異なる局所的な生態系が形成されることがある。[Woods Hole Oceanographic Institution](https://www.whoi.edu/ocean-learning-hub/ocean-facts/how-do-deep-sea-organisms-get-energy/)

すべての深海底が「食物の少ない泥の平原」ではない

深海帯を説明するとき注意したいのは、深海平原の典型的な環境を深海底全体に当てはめないことである。

海嶺や火山活動のある場所では、熱水噴出孔が形成されることがある。また別の場所では、冷湧水と呼ばれる化学物質を含んだ流体が海底から供給される。

こうした場所では、太陽光ではなく化学反応から得られるエネルギーを利用する微生物が一次生産を担うことがある。熱水噴出孔や冷湧水の周囲に独特な生物群集が成立するのはそのためである。[Woods Hole Oceanographic Institution+1](https://www.whoi.edu/ocean-learning-hub/ocean-facts/how-do-deep-sea-organisms-get-energy/)

したがって、深海帯の海底には少なくとも二つの異なるイメージが存在する。

広大で比較的食物の乏しい深海平原と、化学エネルギーや大型遺骸などによって局所的に大量のエネルギーが供給される場所である。実際の深海底は、そのような環境がまだら状に配置された巨大な世界と考えたほうが近い。

探査機が見せる海底と、泥の中に隠れた世界

深海底の研究では、船から音波を送って地形を測る方法に加え、有人潜水船、ROV、AUV、着底型観測装置などが利用される。

カメラで観察すると、ナマコ類、ヒトデ類、クモヒトデ類、甲殻類、魚類など、海底表面やその近くで活動する生物を見ることができる。しかし映像だけでは深海底の生態系全体は分からない。

海底の泥の中には、映像ではほとんど見えない小型生物や微生物が暮らしている。そこで研究では海底堆積物を柱状に採取するコアサンプルなども使われる。泥の化学組成、生物の量、DNAなどを調べることで、「一見何もいない海底」の内部に存在する生態系を読み解いていく。

さらに、海底地形を広い範囲で測る調査と、数メートルほどの範囲を詳しく見る映像観察では見えてくるものが違う。深海研究では、地球規模の地形から微生物の世界まで、異なる縮尺の情報を組み合わせなければならない。

観察できたことと、まだ推定に頼ること

現在の探査によって、深海帯が暗黒、高圧、低温を基本条件とし、多くの場所で表層から沈降する物質が生態系を支えていることはよく分かっている。また、熱水噴出孔や冷湧水などでは、化学合成を基盤とする生態系が存在することも直接観察されている。

一方、「深海平原の生物がどのくらい移動するのか」「離れた個体群同士がどの程度つながっているのか」「食物供給量が数十年単位で変化したとき、生態系がどう応答するのか」といった問題には、まだ大きな不確実性が残る。

その理由の一つは単純である。深海底があまりにも広いからだ。

探査機が数時間撮影した映像は、その場所については貴重な記録になる。しかし、それだけから数千キロメートル離れた別の深海平原まで同じ状態だとは言えない。深海研究では、直接観察された事実と、限られた観測から広域を推定した結果を区別することが重要になる。

人間から遠くても、人間活動から隔離されてはいない

深海帯は陸上から何千メートルも離れているように感じられる。しかし、海の表層と深海底は物質の移動によってつながっている。

その例の一つがプラスチックである。JAMSTECの調査では、水深4,000〜6,000メートルの深海底からマイクロプラスチックが検出されている。また沈降過程を扱った研究では、表層から深海底へ比較的速く運ばれる可能性も示されている。[JAMSTEC+1](https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20210330/)

ただし、深海底に到達したプラスチックが各生物や生態系にどの程度の影響を与えるのかについては、物質の種類、濃度、海域、生物種によって異なり、すべてが解明されているわけではない。

「深いから人間とは無関係」という考えは、もはや成り立たない。

静かな平原に残された大きな未知

深海帯の海底を一言で表すなら、「変化のない暗黒世界」ではなく、「変化が見えにくい巨大な世界」といえる。

太陽は昇らない。季節による水温変化も陸上ほど劇的ではない。それでも海面から降ってくる有機物の量は変化し、動物は移動し、死骸が落下し、堆積物は積もり続ける。場所によっては地球内部から化学物質が供給され、新しい生態系が形成される。

私たちが探査映像で見る海底は、その巨大な世界のごく一部にすぎない。

平坦な泥の上に一匹のナマコがいる。その光景だけなら、何も起きていないように見えるかもしれない。しかし泥の内部では微生物が物質を分解し、海底表面では小さな動物が粒子を食べ、さらに上空からは新しい有機物がゆっくり降ってくる。

深海帯の神秘は、怪物のような生物が潜んでいることだけにあるのではない。何千メートルもの海水の下に、地球規模の広さを持つ生態系が存在し、その大部分を私たちはまだ直接見ていない。その事実そのものが、深海帯に残された最大の未知なのである。